見知らぬ男

催告書に記載されていた被相続人の男は母と同じ姓だった。とは言え、これまで面識もなく、その存在すら知らされていなかったのだから些か面食らっている。元より母方の親族と疎遠状態が長く続いていたのは遺恨を残す離婚劇の結果なのだと心がざわついた。一度は損なわれ、遥か忘却の闇に葬られた血の繋がりは一通の通知文によって再び流れを取り戻したかのようだ。その時不意に、そして自発的に、平野啓一郎『ある男』の思いも寄らぬ結末が脳内に立ち上ってきたのだ、戸籍の売買のこと。いきなり飛び込んできた事実にたじろぎ、幾らか心の動揺を緩和しようと、私は私自身を小説の中に滑り込ませていた。底知れぬ闇は常に閉じ込められているのだと、そして一旦門の横木が外されれば、初めて闇の音を聞くことになる。風に運ばれ、鳥の囀りに仕組まれた秘密の信号を聞き取るように闇の発する音に耳を澄ます。この男は一体誰なのだ。

かの被相続人が生まれてから死亡するまでの連続した戸籍の束を机の上に並べて見ている、至極奇妙な心地がした。兄弟姉妹は勿論、曾祖父の名前まで載っている、ファミリーヒストリー。あの番組のスタッフも故人の戸籍を遡る作業から始めたのだろうか、またしても脳内には先日観た小澤征悦の壮大な家族の歴史が映し出されている。目下の問題は死んだ男の負債を負うのか、放棄するのかということである。有り余る財産があるわけでもなく、かといって暮らしてゆけぬほど貧しくもない私にとっては期限付きの決断を迫られている筈なのだが案外呑気なものだ。架空の空想話の中では、老いて鬼籍に入った男は若い頃、赤ん坊の私を腕に抱いてあやしてくれた。幼稚園の送り迎えを引き受けた日には童謡のひとつも聴かせてくれた。小さな姪っ子を肩車して、イカ焼きの甘辛い匂いやトウモロコシの醤油の香ばしい夜店の並びを飄々と渡った後ろ姿は頼もしく、艶々した全身からは限りない未来を予感させる匂いと輝きが発せられていたーーそうであってほしい。

ゆっくりと沈み始めた太陽の光線が西の辺り一面に伸びて空を真っ赤に染める。彼方には死んだ男の棲む家がきっとあるのだろう、詫び状の一文を胸の奥にしまったらあとは切手を貼って相続放棄の申述書を投函するだけだ。そう、初めから逡巡の答えは決まっていたのに、自分がひどく冷たい人間に思えてやるせなかっただけなのだ。

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