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太陽と土埃と汗のにおいを覚えていますか?

夏草を刈るモーターのにぶい音が聞こえてくる。いつのまにか川べりの歩道は樹木に絡みつくほど背高になった草で半分ほど覆われている。時折小石をはねた高い金属音が混じり、可哀想に日陰に隠れていた虫たちは逃げ惑っているに違いない。淡いベージュの革のソファに軀を横たえ、エンボス模様の白い壁と垂れ下がった白いリネンのカーテン、揺れる光の影に囲まれ微睡んでいると、昨日の憂いなど何処かに置き忘れてきたような心地になる。夏の初めの匂いが網戸越しに三階まで上がってきた。なんとも言えぬ午睡のアンニュイな時間にすべてが弛緩して夏の記憶が一つ一つほどけてゆく。

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高校の卒業生名簿の画像がlineに送られてきた。送り主はお節介で詮索好きの同級生のK、何か意図ありげだ。「Cちゃんの名前が物故の欄にある、どう思う?疑わしいよね。」数年前にもCの消息を訊かれたことがあるが、私には知る術がない。大学卒業後もCは東京に残り、大手の出版社で編集の仕事をしていた。後から入社して厚遇される若い男子社員のことを批難がましく何度か愚痴をこぼすのを聞いたことがある。そのうち退職したと風の便りで知った。夏の太陽の下、土埃を上げながらハンドボールに興じた日々、真っ黒に日焼けした肌から汗がふき出し、掛け声は大きくグラウンドを廻り、確かにみんな屈託無く同じ場所に立っていたのだ。人生などという言葉はあまり好きではないけれど幹から枝が分かれるように、本流から支流へと水が分たれるように人生も行き着く先は分からない。数十年の隔たりは、あまりに悲哀に満ちて心を通わせる道すら消え失せたように虚しく思われる。Cの消息の断片を寄せ集め、Kと私の憶測は長々と続いた。過去を断ち切りたい、温かい交わりから逃れたい、そして人生をリセットしたい、そんな気持ちになっても不思議はない。同級生だからといって関わりを持とうだなんて許されることではない。「調査葉書に死亡と書いて返信したのはC本人かもしれないよ。」Kは言った。夏のギラギラした太陽の光線を皆ひとしく浴びて、それは輝く未来を約束するように影を持たなかった。噎せるような草のにおいを嗅ぐと夏のグラウンドを思い出す。

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