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ブルックリン物語 #37 Out of Nowhere

関西学院大学に通っていた頃の僕はどんな学生だったのだろうか?

久しぶりに西宮へ帰る機会があり、その頃のことを思い出すことになった。

なぜ帰ったか? ビルボードクラシックスのO氏。昨今、日本のポップスアーテイストとオーケストラをジョイントさせセンセーションを巻き起こしているプロデユーサーである。彼が「阪神淡路大震災から22年、今神戸から熊本へメッセージを届ける」コンサートに来てもらえないか? と声をかけてくださったのだ。

僕はチャリテイコンサートは、自分の心が反応するものには参加する。この「関西学院の現役グリークラブと『空の翼』(関学の校歌)で共演」という企画には心踊った。追って八神さんのアイデアで「Senri さんの『KUAMAMOTO』を Senri さんのピアノで大事に歌いたい」という言葉も有り難く、「是非!」とお受けした。

僕は1980年くらいに関学の裏にある聚楽荘というアパートに住んでいた。そこへは、グリークラブの練習場、馬術部の横を通り、墓を抜けて帰らねばならない。けっこう夜遅いと怖かった。学生会館の屋上に建てられた軽音の部室で夜中の12時くらいまで練習し、その後仲のいいギターの友達とそのアパートに戻り、一晩中2人で夢を語り合った。僕たちが終えた時刻にもまだ続くグリークラブの練習の声と時おり聞こえる馬が藁を蹴る音。墓場は通り過ぎるに1分とかからないのに足が竦(すく)んだものだ。

受験前、一応学校を見ておこうと足を運んだ時、一目惚れして入った関学だったので、水を得た魚のように学生生活を謳歌していた。神戸には縁がある。デビューが決まったのも、芦屋にあるメルテイングポットというライブハウスを一晩借り切って録音したテープが、Epicの小坂さん(佐野元春さん担当P)やSONYの須藤さん(尾崎豊くん担当P)に届いたところから始まっている。僕の音楽家の歴史はここからスタートしたのだ。

「サザンが湘南なら今度は神戸がブームじゃないか。どうやら千里は地元ではライブに甲南女子の綺麗どころずらっと集まって大きなブームになっているらしい」

ソニーの中でそんな噂が噂を呼ぶ。

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