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ブルックリン物語 #11 言いだしかねて”Can't Get Started With You”

僕の暮らすアパートは築100年の物件で古い煉瓦造りである。

煙突があるけれど、暖炉はない。それがあったであろうと思われる場所は潰されて、そこには僕が毎日クッキングするキッチンがある。

ウッドデッキに出て我が家を見ると、外見だけ風格のある煙突がにょきっと屋根から突き出て残っているさまは、どこか寂しげに映るけれど嫌いじゃない。

ある日、管理人でありハンデイマン(技術屋)の一人、ホセがデッキの上にある天窓を開けて階下から出てきたかと思うと、とんとんかんかんなにやら工事を始めた。そして、趣のある僕のレンガの壁を壊して大きな最新式冷房装置を取り付けた。

「どうだい、千里。下の大家のジョーの部屋が暑くて暑くてしょうがないらしいから特大のよく冷える奴をつけてやったよ」

ホセはへへんと自慢げに大声で笑った。でもそれは趣のある古い壁にはあまりにも唐突すぎて「美しくない」と思った。「なんだかなあ」と気分を害した僕はしばらく「もうデッキには出たくない」とつむじを曲げ、家に引きこもった。

だいたい一事が万事、ジョーがホセたちに命じることは、ありがたいようなありがたくないような、これと似たような珍事ばかりである。

「千里、ドアベルをつけてあげたから、これで来客が来た時にはすぐわかる。心配要らなくなったよ。どうだい、すごいだろ?」

さっそく鳴らすからさ、といそいそとドア前まで降りて行ってジョーがドアベルを押すと、アパート中の部屋に周波数の高い音が鳴り響いた。僕の部屋にも他の部屋にもジョーの事務所にも非常ベルのように鳴り響く悪夢のドアベル。

「あれ? こんなはずじゃないのにおかしいな。でもまあ、アパートの誰かが気付いてその人がドアを開けてあげれるわけだから、ま、いいよな」

僕はどうもこの手のいい加減さが嫌で、「あのさ、ジョー……」と言いかけたが、満面の笑みのジョーを見て萎えた。喉まで出かかった言葉を飲み込んだのだ。

それ以来わがアパートには、例えアパートの中の誰か一人に中華の出前が届けられても、アパート全員にその情報が伝達され、一斉にどの部屋からも「はーい」という声が聞こえるようになった。いやが応でもアパート中が「家族化」した。やれやれ。誰かに届いた荷物は別の誰かが受け取って本人に渡すし、一斉ドアベルのおかげでアパートに住んでいるみんなの絆が深まってお互いの生活に関わらざるを得なくなった。

つい最近、NYをしばらく離れたとき、部屋に誰もいないのがばれると泥棒に入られる可能性が高くなるので、僕は電気を煌々とつけっぱなしで家を出た。2週間の旅を終えて自分の部屋に戻ると、部屋の中の暖房が暖房冷房の両方に切り替えられる最新式のものに変わっていた。

え? ちょっと、どれはどういうこと? 主がいない間にホセが勝手に入ってこれをとりつけちゃたわけ? そうしか考えられない。ルール違反だよ、それって。

一瞬憤然としたのだが、ちょうどそのころのブルックリンは天候不順で、暑い日と寒い日が、かわりばんこにやってきたので、ジョーのとりつけてくれた暖房冷房切り替え最新式が結果的には非常に役に立った。

「人がいない時に、勝手に人の部屋に入ってさ……一体君は何を考えているんだよ」

そんな言葉を言い出しかねてそのままでいた僕が、このころになると、ジョーに任せときゃ最後に物事はいい方向に進むのかな、ふとそんなふうに思えるようになってきた。

そんなある日、事件が起こった。

風呂に入ろうとお湯の蛇口をひねったのはいいが、ピアノに夢中になっているうちにそれを完全に忘れてしまった。気がついたときにはバスルームから流れ出たお湯で廊下が水浸しになっていた。慌ててタオルを何枚も使ってその溢れ出たお湯を拭いてタオルを絞って拭いて絞ってなんとか元どおりの状態に戻した。

そんなことのあった翌朝早く、ジョーの大きな声とドアをノックする激しい音で目がさめた。慌てて飛び起き玄関を開けると、真っ赤な顔で興奮し怒りまくっているジョーがそこにいた。彼は一気にまくしたてる。

「千里、何を考えているんだ。階下のぼくの事務所が水浸しだ。いったいどうしてくれるんだ」

人間は怒りが頂点に達した人を目の前にすると、すーっとどこか冷静になるものである。何をいったい彼は怒っているのだろう。たかが水ごときじゃないか、ちょっとオーバーすぎやしないか。しかし、ぼくがこのときまだタカをくくっていた。

一緒に現場に降りて行ってみると、アシスタントの男の子たちがモップで黙々と上の階から溢れてきた床の水を拭いている。机の上の手書きの名簿や資料、コンピュータのキーパンチのあたりにも水が少し落ちた形跡が見受けられる。天井を見上げると、どうやらぼくのところの廊下の床はそのまま階下の天井になっており、つまり溢れたお湯はストレートにそのまま階下に流れ落ちたというわけだ。

なんという安普請な。それこそこれって建築上に問題があるだろう……と思わず心に浮かんだ言葉をそのまま吐こうとして、このときもなぜかまたそれを言い出しかねた。なぜならば、その場のあまりにしーんと悲しみに満ちた状況がシリアスすぎて、それに怯んだのだ。なおもジョーが激しい口調で愚かな2階の男を罵倒する。

「不動産の仕事もぼくの仕事だけれどこの近所の貧しい人たちの相談にも乗っているのさ。ここは教会みたいなもんだよ。その人たちの大切な相談事を書いた紙や電話番号が水浸しでインクが滲んで読めなくなっている。どうして千里はお湯が溢れたそのときにぼくに連絡しなかったんだ。ぼくらはそういう間柄だろう? ぼくは今まで生きてきた人生の中で、こんなに自分の大切なものを無茶苦茶にされ悲しい気持ちになったことはない。人生で一番最悪の日がやってきたよ」

ぼくはいくつも喉元にあがってくる言い訳の言葉を必死に飲み込んだ。ちょっとその言い方はいくらなんでも大袈裟だろうと思う気持ちがあったのだが、その場の神妙な雰囲気に飲み込まれ、自分までが悲しい気持ちになってしまった。ジョーがそこまで言うなんて彼が受けたダメージはよっぽどだったんだ。

「ジョー、ぼくはこんなことになっているとは知らなかったんだ。知っていたらすぐに知らせたさ。すぐに拭き掃除して水は階下に行ってないと思ったんだ。悪気はなかった。だけど、大切なものが無茶苦茶になった気持ちは、今ジョーがぼくに伝えてくれなければわからなかった。ジョーの痛みに気がつけなかった。なぜならば、そんなに大きな事件になっているとはぼくは予想しなかったからさ。ありがとう、心のままを教えてくれて。ぼくはきみの気持ちを知れてよかったよ。この回復にかかる費用はすべて弁償するよ。見積りが出たら教えて欲しい。本当に申し訳なかった。ごめんなさい」

ジョーは俯いて名簿や濡れたテーブルの上に置いてあるものを一つ一つ手にとって見比べながらぼくの言葉には何も答えなかった。「本当にごめん……」ぼくは何度か呟いて頭をさげ、その場を静かにあとにした。

自分の部屋に戻ってからいろいろ考えた。ジョーの仕事場のアンテイークな椅子、ソファ、そしてコンピュータは5台、どう考えても膨大な弁償額になる。ぼくは保険にも入ってない。しかし……大切にしているものを無茶苦茶にされて心の底から悲しいと言った彼の言葉は、僕の心の奥までぐさっと刺してそのまま鈍痛を残し、そしてその痛みはずっとそこから消えなかった。

それから一ヶ月後、ジョーのオフィスに何台もの新品のコンピュータが運び込まれるのを目撃した。新しい機材がやってきたのだなと思った。

別の日、家賃を納めに行って事務所の中を見たら、あのとき水まみれになった家具はもはやその場に一つもなかった。その部屋はがらんとして、リニューアルされたかのようだった。あまりの変わりように驚いて、再び胸の奥にちくっと痛みを感じた。

人は知らず知らず事件を起こし、起こした事件のすべては解決されないまま先へ進んでいってしまうものなのだ。自分が意図したものでなかったとしても起こってしまったことこそが現実だ。いずれ請求書が来るだろう。それを待つしかない、と腹を括った。

    ※

あれから2年が経つ。

ジョーは結局ぼくに一銭もお金を請求しなかった。

数ヶ月は多少会うたびにギクシャクしたが、僕から「どうしてる?」とか「最近ジョーは趣味の音楽はやってる?」とか話しかけるうちに、彼からも「よー、千里、窓ガラスを新しいのに変えてあげようと思ってさ」と、ホセをよこしたりするようになった。そしてある日、あのときの弁償の話になったのだ。

ジョーは言葉を選びながら、「いや、もういいんだ。ちょうど買い換えようと思っていたところだったし。ぎりぎりあの大切な名簿は読めたし、なんとかなった。ぼくもあのときは興奮して悪かったなあと思って」と言った。

大切なものがめちゃくちゃにされたとぼくに向かって怒りをあらわにしたとき、ジョーはまず自分の事務所にいろいろ相談に来る近所の人たちのことを挙げた。そこには名簿の名前があるだけではなく、「みんなと長年触れ合ってきた大切な思い出が詰まった台帳」でもあったのだろう。だからこそぼくは何度も言葉を飲み込んだ。そしてどうすることもできない自分が情けなく悲しい気持ちになったし、ジョーに心からすまないと思った。本当に告げたい言葉がまだまだあったような気がするがそれを飲み込む日々が続き、しばらくは合わない日々が続いていた。

そのあとジョーとふたりでステーキを食べに行った。彼がぼくを呼び出してわざわざおごってくれたのだ。彼が大好きなその店の肉は量が多すぎて結局全部を食べきれず、そんなぼくを見て、あの大笑いの顔でせっせとテイクアウトの箱に肉を詰めてくれるジョー。そんな彼を見てこれだけは言葉を飲み込まずに、きちんと言おうと思って口に出した。

「ジョー、あの台帳にあった人たちとの思い出こそが一番ジョーにとって大切なものだったんだね。それを汚してしまって本当にごめん。僕を許してくれてありがとう」

にっこり彼は笑って「なんてことないさ」といういつもの掌を広げるポーズをした。

人生は短い。

大事な人に伝え忘れることのないように、言い出しかねて悶々とするのはやめよう。自分の心の内側をストレートにその場で表せる人間になりたいなとこのとき切実に思った。

ブルックリン暮らしに6回目の夏がやってくる。

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言いだしかねて “Can't Get Started With You”(1935)

作詞:アイラ・ガーシュイン 作曲:ヴノン・デューク

1936年の映画『ジークフェルド・フォリーズ』で、ポブ・ホープとイブ・アーデンが歌った。バニー・ベリガンのトラッペットで有名になる。歌詞のバージョン違いも多く、タイトルも”I Can’t Get Stand”と表されることもある。

サミー・デイビス・ジュニア

https://www.youtube.com/watch?v=Ls33JN395OE

バニー・ベリガン

https://www.youtube.com/watch?v=_u7x-Q3oTjQ

ノラ・ジョーンズ & マリリン・マックパートランド

https://www.youtube.com/watch?v=vMp-7TKLXA0

ジム・ホール

https://www.youtube.com/watch?v=g0bSrBrnXd4

ジョー・パス

https://www.youtube.com/watch?v=5daFwnvcmdg

ビリー・ホリディ

https://www.youtube.com/watch?v=ZGAvnOSbJ_M

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文・写真 大江千里

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