ビジネスマンの胡散臭さは何なのか
「胡散臭い」を辞書で調べると、次のように書いてある。
これは僕の脳内辞書なので、書店で探しても見つからないことは述べておかないといけない。23年の間、偏見という眼鏡を通して、東京に住む人々を観察して作り上げた、とても信用のおける辞書である。
どうやら胡散臭さというのは、「ビジネス」や「資本主義」と深い関係があるようだ。第二の意味を見てみよう。
①の意味だけを考えると、手に職をつけた労働者が念頭に置かれているようだが、確かに胡散臭いのは働いている人に限られない。一種の洗脳状態に置かれていることを考えれば、大人から影響を受けた学生ビジネスマンの方が、胡散臭さは強い気もする。
やはり僕の辞書では、「ビジネスマン」と「胡散臭さ」がかなり強く結びついている。なぜだろうか。まずはビジネスマンをどういうものだと理解しているのかを考える必要があるだろう。
「ビジネスマン」はあまりに意味が広いので、ひとまず理想的なビジネスマン像を考えるのが良いだろう。理想的なビジネスマンの第一条件は、商売を成功させて金持ちになっているような人たちである。資本主義社会で成功している、というのは、こういう意味で間違い無いだろう。
理想的なビジネスマンの第二条件は、金を稼ぐ手段が世界のためにもなっているということである。たとえば、我々の生活に欠かせない携帯電話や車、道路なんかを作り出した人たち、また銀行で社会のお金の流れを円滑にしている人たちなんかは、ある程度の社会貢献をしている。彼らは、自分の仕事の対価として高い報酬をもらえるだけでなく、仕事を通して世界をより良いものにしているのである。
❶仕事を通してお金を稼いでおり❷その仕事が世界のためになっている、というのが、理想的なビジネスマンだとしよう。すると、胡散臭いビジネスマンは❶は満たしているが❷を満たしていない人、という仮説がたつ。
情報商材屋やNo.1ホスト、転売ヤーなんかが代表選手だろう。お金を稼いではいるが、それは経済・社会システムのバグをついてかすめ取っているだけであり、世界への貢献度、あるいは倫理的な尺度で見ればマイナスなことをしている。脳内辞書にもそう載ってた。
しかし、上の定義だけでは胡散臭い人は導き出せない気もしてくる。世界のためになっていない仕事でお金を稼ぎつつも、それを表立って言わないような人からは、胡散臭さを感じられないからだ。具体的にいうと、転売ヤー・ホスト・商材屋だとしても、月いくら稼いだとかを表立って言わなかったり、誰にも気づかれずにひっそりと口座に表示される桁数が増える様を見てニヤニヤしているだけであれば、そこまで胡散臭くは無いだろう。
ここで「胡散臭さ」の定義に別の条件を加えてみよう。太字が追加部分である。
こうすれば、ひっそりとお金を稼ぐことが好きな商材屋は胡散臭くない、と言えるようになる。
さて、胡散臭いビジネスマンの定義は大体完成したと思う。最新版の定義への反例は、パッと考えただけではそう見つかりそうもない。
ここでようやく、最も考えたい問い、すなわち、「ビジネスマンであることと胡散臭さとの間にはどのような関係があるのか」を考えたい。その中でも特に気になるのは、「ビジネスマンになると胡散臭くなるのか」というものである。
なぜそんなことが気になるのかというと、今後の人生で自分が関わる人は、ほとんどの人が広義のビジネスマンには当てはまっており、もし仮に、ビジネスマンであることの本質に胡散臭さがあるのだとしたら、今後結ぶ人間関係はほとんどが胡散臭い人とのものになって、結構しんどいからである。胡散臭い人間、軽薄な人間、利己的な人間などなどは、やっぱ一緒にいて時間を無駄にする感じがする。
ということで、「ビジネスマンになると胡散臭くなるのか」「ビジネスマンの本質には胡散臭さがあるのか」ということを考えたい。ここで、先ほど作った胡散臭いビジネスマンの定義が、役に立つと思われる。
この定義は、3つの異なる条件から構成される。
ここで、①はある人がビジネスマンであることを決定している一方で、②と③は、ある人が胡散臭いという性質を持つことを決定しているように思われる。言って仕舞えば、「胡散臭さ」とは、ありもしない実力をアピールしてくることである。新興宗教であれば、信者を救うことが出来ないのにもかかわらず「あなたは救われます」と言ってくることが胡散臭いし、仕事やビジネスであれば、再現性のない投資や起業の方法論をさも万能であるかのように雄弁することが、胡散臭い。
ということで、胡散臭さの定義は、「ありもしない実力をアピールしてくる様」になる。
ここにおいて、理想的なビジネスマンの定義と、胡散臭さの定義が、粗雑ではあるが出揃った。
それでは、僕が最も気になる問い、「ビジネスマンの本質には胡散臭さがあるのか」はどう答えられるのだろうか。ここでは、「理想的なビジネスマンの本質には胡散臭さがあるのか」という問いを考えることにする。
どちらも正しいような気がする。しかし、NOの方は、先天的に卓越した能力を持った人しか理想的なビジネスマンにはなれないという、能力主義的を助長してしまう側面がある。さらにYESの方についても、これを推し進めれば、そもそも信頼して仕事を任せるとかビジネスの基盤には信頼がある、と言う大前提が突き崩されてしまうだろう。と言うことで、端的に結論を出すのは難しそうである。
とはいえ今僕が考えているのはどちらかというとYES寄りである。理想的なビジネスマンは本質的に胡散臭い。上で書いたように、おそらくビジネス的な成長を遂げるのに、自分が出来ないことに挑戦する、出来ないことも出来ると言ってみることは、かなり重要な点だと思う。引き受けた後に、「こいつ最後まで胡散臭かったな〜」と思われるか、「意外と出来るんだなこいつ」と思われるかは、ビジネスマンの頑張り次第なんだと思う。まあプレッシャーのかかる仕事をしている人は、自分のポジションを取ることが体に染み付いてしまっていて、それが仕事以外のはっきりさせなくても良い場面でも出てくるから、仕事以外の場面で胡散臭くなってるのはあると思う。そういう人は結構、プライベートが仕事によって侵食されているので、可哀想っす、てかワオは無理。
ということで結論としては、理想的なビジネスマンは、仕事を引き受けた瞬間は胡散臭いこともある、と言うものである。
追伸
今回は約束を守るとか、責任を果たすとか、仕事の際に生じるコミュニケーションでの胡散臭さについて考え、一瞬だけ胡散臭い、と言う結論が出た。これはこれで良いと思う。
その一方で、全く別の種類の胡散臭さを、ビジネスマンに感じているのかもしれない、と考え出した。おそらく、市場原理が全て解決してくれるだろう、と言う、楽観的な自由主義的見方が、相当胡散臭く感じるのだと思う。今回の記事の言葉遣いで言い換えれば、「自由主義が全てを解決することは出来ないのに、さも出来るかのように語ってくる」と言う点に不信感を感じるのである。さらにこの辺の議論を全くせずに、市場原理が全て解決してくれると盲信しているとなると、軽薄で思慮の浅いところに蕁麻疹が出そうになる。
と言うことで、「自由主義はなぜ胡散臭いのか」「自由主義を盲信している人はなぜ胡散臭いのか」と言う別の問いが湧いてきた。また別の機会に。
よろしければぜひ