見出し画像

歩道側を歩いたところで女も死ぬだろ

「スマートな男性とは」

この質問から想像される男性像はどのような人だろうか。仕事で疲れた時に話を聞いてくれる人、常に多めに払ってくれる人、居酒屋でお酒を溢した時に女性の服が濡れていないかを気遣ってくれ、ハンカチをそっと出してくれる人。

スマートな男性が行う行為として、様々なものが挙げられるだろう。その中の1つに、「車道側を歩いてくれる」というものがある。2人で横並びになって歩いている時に、さりげなく危険な車道側を歩いてくれる、というものだ。

歩道側を譲るという行為は確かにスマートで気遣いができる男性像としてよく上がるものである。しかし、それによって事故にあう危険が減っている、と真剣に捉えている人はどれくらいいるのだろうか。本当に男性が車道側を歩くことによって、女性は、車との接触事故を避けることができるのだろうか。

そんなことはないだろう、というのが僕の感覚である。確かに道によっては車が歩行者のギリギリを通り、本当に車にぶつかりかねない、という場所もあるだろう。しかしそんな危険な場所は、少なくとも東京ではほとんどお目にかかったことがないし、何しろそんなに車が近い場合、よほどのバカップルでもない限り横並びではなく縦並びで歩くのが普通だろう。しかも、車道側を歩いている男性が巻き込まれるような事故があった場合、真隣にいる女性もすでにその時事故の被害にあっていると考えるのが妥当ではないだろうか。

この感覚は、東京に住んでいる人なら共有可能なものだと思っている。しかしその一方で、「男性が女性に歩道側を譲る」という行為が、スマートな男性像としてよく挙げられ、また実際にそういうことができる男性を見ると、気遣いができる人だな、と感じることもある。僕はストレートの男性なので「気遣いができるな」と恋愛感情的に思ったことはないが、友達に話を聞いたところ、やはり気遣いができるなとは思うらしい。

2つの感覚をまとめると以下のようになる。

①車道側を歩いても事故被害は変わらない

②車道側を歩く行為を見た時、「この人は気遣いができる」と思う

このとき、これらが正しいものだとした時、一般化して次のようなことが言えるだろう(わかりやすくするために太郎=男性、花子=女性とする)。

花子が太郎に対して、「太郎は気遣いができるな」と思うためには、太郎の行為がもたらす結果がどんなものかは関係ない。

車道の例で言えば、「気遣いができる人物である」という評価を太郎が得るためには、太郎が車道側を歩いて実際に花子を救ったかどうかは大切ではないということだ。

他の例で言えば、飲み会で飲みすぎて気持ちわるそうな顔をしている人に水を飲ませてくれる人は、確かに気遣いができる人物である。しかし彼が実際に水を飲ませることで何人の人間を嘔吐から救ったかということは関係ない。彼は気遣いができる人物である、という時、我々は別の部分を見てそのような評価を下している。

であるならば、何を見て我々は太郎が気遣いができる人物である、と言っているのだろうか。真っ先に上がるものとしては、彼の気遣いをしようとする意図、があげられるであろう。すなわち、彼が花子を守れたか守れなかったかにしろ、太郎が花子を車の事故から守ろうとした、その意図が大事なのだ、という風に。

しかしこれではまた別の問題が起こる。それは①に起因するものである。もし仮に太郎が、①「車道側を歩いても事故被害は変わらない」ということを、我々の一般的な感覚と同じように、思っているのだとしたら、「車道側を歩いて花子を守ろう」という意図も持つことはできないのではないだろうか。「俺が車道側を歩いても花子も事故に遭うけど、俺には花子を守ろうという意図はあったよ」と太郎が言ったら、それは少し違和感がないだろうか。

結局、「気遣いができる」という評価が何によって獲得されるのかはよくわからない。そもそも議論の出発点である①と②が僕の感覚でしかないので、意外と他の人に聞いてみたらそんなことはないのかもしれない(特に①については)。その辺のところ、コメントとかしてくれると嬉しいです。みなさんのご意見待ってます。

よろしければぜひ