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「遠州忩劇」から引間城落城まで-家康にまつわる浜名湖周辺の戦死塚-

3月19日に放送されたNHK大河ドラマ『どうする家康』第11話「信長との密約」では、徳川家康と武田信玄との間で、今川領のうち大井川を境とした西側を家康が、駿府を含む東側を信玄が治める密約が結ばれるシーンが描かれました。その約定に従い、家康は遠江国へ、信玄は駿河へ侵攻しますが、ドラマでは引間城の攻防がクローズアップされたためか、そこへと至る過程で起きた周辺の戦闘は割愛されました。浜名湖周辺には、その時期の戦闘で死亡したとされる将兵の戦死塚が点在しています。

井伊直親の粛清と「遠州忩劇」の拡大

駿河・遠江・三河の3国を支配下に置いた今川義元が、桶狭間の戦いで織田信長に討たれたのは永禄3年(1560)5月19日、その直後から、それまで義元の威光に服していた国人たちは、今川氏の支配からの独立を志向するようになった。無論、松平元康もその一人である。

前稿で述べたように、元康の動きに呼応するかたちで、松平・今川の両勢力の境目エリアの国人たちの中には、今川を見限って松平方となる者も相次いだ。そのため今川家臣で吉田城(愛知県豊橋市)の城将を務める大原資良などは、人質となっていた松平一族や国人の妻子らを処刑したのである(十三本塚の伝説)。

こうした混乱の中、義元の跡を継いで今川家の当主となった嫡男・氏真が、家臣や国人に対し、疑心暗鬼となるのはなかば必然であろう。まず、松平領国に近い浜名湖北部を根拠地とする井伊氏が標的となった。

当主の井伊直親は、元康との内通を氏真から疑われ、その弁明のために駿府へ赴く途中、掛川城(静岡県掛川市)の城下まで来たところを、掛川城主を務める今川家臣・朝比奈泰朝の軍勢に取り囲まれ、殺害された。永禄5年(1562)12月14日の出来事であったという[小和田 2016]。

掛川市には「十九首町」という奇妙な地名と、その由来となった古跡がある。拙著『日本の戦死塚-増補版 首塚・胴塚・千人塚』[室井 2022]では、これを平安時代の「承平・天慶の乱」で戦死した平将門とその従者の戦死塚として紹介したが、井伊直親主従の墳墓とする異説も語られてきた。

【平将門の首塚】数多ある平将門の首塚の一つだが、この地で殺害された井伊直親一行の亡骸を埋葬したとする異説もある(静岡県掛川市十九首町)

伝承では、直親の亡骸は、故郷・井伊谷(浜松市北区引佐町)にある井伊家の菩提寺・龍潭寺の僧によって引き取られ、荼毘に付されたことになっている[小和田 同上]。また、井伊谷の近くには、直親の遺灰を埋葬したとされる「灰塚」(浜松市北区細江町中川)も伝わっている。

【井伊直親の灰塚】故郷・井伊谷(浜松市北区引佐町)の南東約5キロの地点にある。塚は立派だが、近代に行なわれた河川改修のため、元あった場所からは移動しており、往事の姿は不明である。それよりも、なぜこの地に直親の遺灰が埋葬されたのかは、よくわからない。

井伊直親の粛清の経緯は不明な点が多い。そして、死亡した直親に代わり井伊家の当主となったのが、2017年のNHK大河ドラマ『女城主・直虎』の主人公となった井伊直虎とされる。この直虎の人となりや、そもそも女城主と直虎なる人物が同一人物であったのか否かも詳らかではないが、確かなのは、井伊家のような弱小領主にでさえ、今川氏からの苛烈なプレッシャーが加えられたことである。

直親の殺害は、あからさまな見せしめであったといえるが、結論から言うと、それは逆効果しかもたらさなかったようだ。その後も松平氏支配領域に近い遠江国西部の国人たちの動揺は鎮まる気配がなく、浜名湖北方の山間部に勢力をもつ奥山氏や、天竜川左岸の山里を支配する天野氏などでは、一族郎党が今川・反今川に分かれて抗争をはじめたほか、有力国人の中には、二俣城(浜松市天竜区)主の松井宗恒や引間城(浜松市中区)の飯尾連龍のように、今川氏を見限って松平氏へと走ろうとする者も現われたのである。

こうした遠江国内での政治的混乱のほどは、のちに「遠州忩劇」と呼ばれるようになる。それは今川氏と、武田信玄・北条氏康といった有力大名との同盟関係を揺るがす事態を招来した。

家康・信玄、今川領へ同時侵攻

桶狭間の戦いから3年を経た永禄6年(1563)7月、松平元康は、今川義元から受けた偏諱「元」の一字を捨て、「家康」と改名した。彼は、名乗りの上からも今川家からの独立の意思を鮮明にしたのである。

他方、松平領に近い西遠江では、国人たちのゴタゴタが続いていた。永禄8年(1565)12月、今川氏真は引間城主・飯尾連龍を駿府へ呼び出し、処刑した。これをもって一連の「遠州忩劇」は収束したとされるが[本多 2022]、このエリアに対する今川氏のガバナンスは、もはや効かなくなっていたのである。この年までに、家康は三河一国を、ほぼ平定しようとしていた。そして翌永禄9年(1566)、家康は三河国内で最後まで抵抗していた牛久保城(愛知県豊川市)の城主・牧野成貞を下し、名実ともに三河国の主となったのである。

同じ年の12月29日、家康は従五位下三河守に任官し、心機一転、姓も松平から「徳川」へと改めた。「徳川家康」の誕生である。これにより、後顧の憂いを払拭できたのは、家康を事実上の麾下に置いた織田信長である。信長は、翌年から弱体化した美濃国への侵攻を本格化させ、翌永禄10年(1567)には妻の在所である稲葉山城(岐阜市)を攻略すると、ここを新たな居城に定め、名も「岐阜」へと改めた。

信長は息つく間もなく、翌永禄11年(1568)に将軍・足利義昭を奉じて上洛を果たすと、家康に対し、今川領への侵攻について武田信玄と協議するよう働きかけた。これを受けて家康は信玄と密約を結び、大井川を挟んで西側を徳川が、東側を武田が切り取り次第で自領化することで合意した。ここに家康による遠江計略の事前準備が整ったのである。

女城主の戦死塚「椿姫観音」

同じ年の12月13日、家康に率いられた徳川軍は、野田城(愛知県新城市)主・菅沼定盈の先導で浜名湖の北・神座峠(愛知県新城市黄柳野・浜松市北区引佐町狩宿)を超えて遠江国へと侵攻した。同じ日、富士川沿いを南下してきた武田信玄も、駿府の今川館を攻め、これを陥落させた。

その際、武田軍は富士川の右岸・内房口(静岡県富士宮市内房)において迎撃に出てきた今川軍と交戦し、これを撃破したとされ、この時の戦死者の亡骸を埋葬したと伝えられる首塚(または胴塚)が残されている。土まんじゅうの上に佇立する苔むした五輪塔は、戦死塚らしい戦死塚といえよう。

【首塚(胴塚)】武田信玄と今川氏真の軍勢が交戦した内房口の戦いに関わる戦死塚と伝えられる
(静岡県富士宮市内房)。

他方、西遠江の国人たちは次々と家康に帰順したため、徳川軍は戦らしい戦をせず駒を進めることができた。この地には、すでに今川氏に義理立てする国人は、ほとんどいなかったのである。そうした中、頑として抵抗の構えを見せたのが、先年処刑された飯尾連龍の未亡人が立て籠もる引馬城であった。

家康による引馬城攻めの詳細は、やはり史料的な制約があり詳らかではないが、女城主に直率された寡勢の一隊が、徳川の大軍を相手に勇戦したさまは、種々の伝説を生み出し、今日まで語り継がれている。一般に「お田鶴の方」として知られる女城主は、12月24日、城外に打って出て、18名の次女とともに壮絶な戦死を遂げたと伝えられている。

現在、引間城の北東約300メートルの場所に、お田鶴の方を祀った「椿姫観音」がある(浜松市中区元浜町)。ここに堂宇が建てられたのは昭和19年(1944)とされ、その後、アジア・太平洋戦争での「浜松大空襲」で焼失した。現在の堂宇は、戦後の昭和26年(1951)に再建されたものである。かつては、ここから北西に約5メートル離れた田圃の中に10坪ほどの台地があり、これを「御台塚」と呼び、お田鶴の亡骸を埋葬した場所だと伝えていたことから、これも戦死塚とみていいだろう。


【椿姫観音】お田鶴の方の亡骸を埋葬したとされる戦死塚(御台塚)は、この堂宇の裏手の田圃の中にあったという。

言うまでもなく、「椿姫」とはお田鶴の方を指すが、その名の由来は、もともとお田鶴と知己の間柄であった家康の正室・築山殿が、非業の死を遂げたお田鶴を供養するため、塚の周辺に100本あまりの椿の木を植えた故事に因むという。堂宇が建立されたのは昭和に入ってからだが、お田鶴の記憶は再説されつづけ、今日では毎年11月23日に、お田鶴の追善供養が町の有志により行なわれている。

《参考文献》

小和田哲男 2016『井伊直虎-戦国井伊一族と東国動乱史』 洋泉社歴史新書y
本多隆成 2022『徳川家康の決断-桶狭間から関ヶ原、大阪の陣まで10の選択』 中公新書
室井康成2022『日本の戦死塚-増補版 首塚・胴塚・千人塚』 角川ソフィア文庫




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