『日本の戦死塚』拾遺

室井康成著『日本の戦死塚-増補版 首塚・胴塚・千人塚』(角川ソフィア文庫)の本文で言及…

『日本の戦死塚』拾遺

室井康成著『日本の戦死塚-増補版 首塚・胴塚・千人塚』(角川ソフィア文庫)の本文で言及できなかった戦死塚の事例を、著者自身が紹介いたします。記事に掲載する写真は、すべて著者が撮影したものです。転載はお控えください。

最近の記事

関ヶ原の戦い、敗者たちの戦死塚

11月12日(日)に放送されたNHK大河ドラマ『どうする家康』では、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いが描かれました。室井康成著『日本の戦死塚-増補版 首塚・胴塚・千人塚』(KADOKAWA)では、関ヶ原古戦場に遺る「東首塚」「西首塚」のほか、石田三成・小西行長・安国寺恵瓊・大谷吉継の「首塚」、島津豊久の遺体を埋葬したとされる「島津塚」の伝承を考察しています。 西首塚(岐阜県不破郡関ヶ原町) 東首塚(岐阜県不破郡関ヶ原町) 石田三成の首塚があった付近(福島県郡山市和田町

    • 鳥居元忠の「首塚」

      11月5日(日)に放送されたNHK大河ドラマ『どうする家康』では、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の前哨戦となる伏見城の攻防戦が描かれました。徳川方の城将として戦死した鳥居元忠の首級は、大坂城外の京橋口に晒された後、元忠と親しかった商人の手に引き取られ、「百万遍」の名で知られる京都・知恩寺の墓地に埋葬されたと伝えられています。伝承の詳しい内容は、拙著『日本の戦死塚-増補版 首塚・胴塚・千人塚』(KADOKAWA)の第六章「「関ヶ原の戦い」の敗者たち」に、「鳥居元忠の首塚」とい

      • 「遠州忩劇」から引間城落城まで-家康にまつわる浜名湖周辺の戦死塚-

        3月19日に放送されたNHK大河ドラマ『どうする家康』第11話「信長との密約」では、徳川家康と武田信玄との間で、今川領のうち大井川を境とした西側を家康が、駿府を含む東側を信玄が治める密約が結ばれるシーンが描かれました。その約定に従い、家康は遠江国へ、信玄は駿河へ侵攻しますが、ドラマでは引間城の攻防がクローズアップされたためか、そこへと至る過程で起きた周辺の戦闘は割愛されました。浜名湖周辺には、その時期の戦闘で死亡したとされる将兵の戦死塚が点在しています。 井伊直親の粛清と「

        • 松平元康「三河平定戦」の代償-豊橋「十三本塚」伝承とその周辺-

          1月22日に放送されたNHK大河ドラマ『どうする家康』第3話「三河平定戦」では、桶狭間の戦い後、今川から離反し織田方に付いた松平元康(徳川家康)が、信長への奉公を明らかにするため、本拠地・岡崎城周辺の今川方勢力と対峙する様子が描かれました。クライマックスは、元康の裏切りに激高した今川氏真が、人質となっていた松平家臣の妻子を処刑した場面でしょう。ドラマでは、元康夫人の目の前で惨事が起きたように描かれていましたが、伝承では、吉田城(愛知県豊橋市)での出来事とされています。 松平

        関ヶ原の戦い、敗者たちの戦死塚

          桶狭間の戦い(後篇)-今川義元の首塚・胴塚、および部将たちの戦死塚

          1月15日に放送されたNHK大河ドラマ『どうする家康』第2回では、桶狭間の戦いに勝利した織田信長が、松平元康(徳川家康)の在陣する大高城に押し寄せるシーンが描かれました。しかし一次史料に依る限り、信長は義元を討った後、早々に居城の清洲城に引き上げています。そこで信長は、義元ら討ち取った今川方部将の首実検を行ない、戦死者の供養を行ないました。 ■須ヶ口の「今川塚」桶狭間の戦いで今川軍を大敗せしめた織田信長は、その馬先に今川義元の首級を掲げ、来た道を急いで引き返し、その日のうち

          桶狭間の戦い(後篇)-今川義元の首塚・胴塚、および部将たちの戦死塚

          桶狭間の戦い(前篇)-戦死塚からみた戦いの様相-

          1月8日(日)にスタートしたNHK大河ドラマ『どうする家康』では、有名な「桶狭間の戦い」が描かれました。この戦いでも、多数の将兵が戦死したとみられ、その亡骸を埋葬したと伝えられる戦死塚も複数存在します。本稿では、室井康成著『日本の戦死塚-増補版 首塚・胴塚・千人塚』に掲載した戦死塚一覧の中から、この戦いに関わる戦死塚とその伝承を紹介し、ささやかな考察を試みます。 ■発端はよくある境界争い永禄3年(1560)5月19日、駿河・遠江両国(静岡県中西部)の守護大名・今川義元は、

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