それでも私は祖母が好き

 こんばんは。祖母の命日に事もあろうにひたすら祖母sage投稿をしてしまったババ不孝者は私です。

 今日こそは祖母の良いところを少しは書きたいと思っていますが、もうしばらく悪口は続くかもしれない・・・悪口たって実話ですからね。



裏金疑惑

 えー、まあそんなこんなで大学進学も否定された私。でも合格しちゃったもんはしょうがないという事で、大学へは行きました勿論。

 というか、合格が出た時一番喜んでくれたのも婆ちゃんだったんですよね。自慢の孫にたっかい腕時計を買っちゃると言ってくれていたのですが、欲のない私はこれを華麗にスルー。
 今ならノータイムで貰うのに。何をカッコつけてんだか。

 私の大学生活は、これまたあまり順風満帆ではありませんでした。学業についていけなかったというのもありますけど、単純に友達がいなかったんですよね。

 大学5年目の冬、試験前に同期の女の子にノートを貸して欲しいと頼まれ、その際に話した会話。

女子「新歓コンパでさ、◯◯君面白かったよねー!一気飲みしすぎて急性アル中手前までいってさ。」

私「いやあの、俺それ行ってない。」

女子「具合悪かったんだっけ?」

私「いや存在を今知った」

女子「え?」

私「え?」

 そもそも何が面白いのかも分からないんですけど、まあはい。こういう物事にはゼミに入るまで本当に無縁でした。

 そもそもなんで留年したかっていうと、人間不信に陥った事があるんですね。1年ぐらいかな。その間の記憶は本当にかなり飛んでまして、何して過ごしていたのか記憶が定かではないんですよ。
 
 とにかく鮮明に覚えているのは、昼の12時近辺と夜の10時頃に定時連絡をしてくるマメな父の連絡を取る以外は、ケータイの電源をオフにしていたという事ぐらい。

 それほど人と会話するのが怖くなっていました。大家さんも良い方で、「親御さんから預かっているようなものだから、家賃は直接顔を見て払いに来てください」という人でした。

 が、3,4ヶ月溜めて、「そろそろ払いに来てくれないかな?」と言われない限りは絶対に自分からは行きませんでした。

 社交性ゼロどころか、真面目にマイナスになっていた時期があったんです。

 そんな状態だと、当然大学になんて行きません。離れて暮らす両親に打ち明けることも出来ず、ただただすぎる日々。

 しかしそんなある日、ケータイの電源を入れると、たくさんの着信履歴がありました。

 姉からです。恐る恐る返信の電話を入れると、

 「大学から連絡があって、このままだと卒業が危ないって言われて、それで婆ちゃんが『いくら包めば卒業させてくれる?』って言ってて。私が途中で気づいて『認知症だから変なこと言うんです』って言っておいたけど、お前の方でも対応しないとマズくない?普通に犯罪だよ。」

 お、おうふ…相変わらずぶっ飛んでるぜ婆ちゃん。その後大学へ説明の連絡を入れて、「お婆さまの気持ちは分かるから」と不問にしていただきましたが、いやはや中々ロックな婆ちゃんでしょう?

 その後休学を挟んで2度も留年した後になんとか卒業したものの、うまくいかない就職活動。実家への強制送還は、イコールこの婆ちゃんとの闘いのはじまりでもありました。

それでも

 私が働きはじめて3年目ぐらいの時、肺に影が見つかった婆ちゃん。進行性のガンではなかったし、もう既に85歳近く。いつお迎えがきたっておかしくない状態でした。
 それでもこの間は一番あの人にとって心配事もない穏やかな時期だったんじゃないかな。

 発覚から3年後ぐらいでしょうかね。最初は箸を落とすぐらいの事だったのですが、だんだんご飯茶碗を落とす事が多くなり、これはおかしいと思って脳外科へ連れていくと、肺から脳にガンが転移しており、歩行などあらゆる動作に支障をきたすレベルで脳を圧迫している状態でした。

 年齢が年齢だったので、手術をして摘出という選択肢はもう残されていませんでした。
 排泄などもままならなくなり、最初は家族で介護を試みましたが、このタイミングで父も身体を壊してしまい、姉も嫁いだ後だったので、互いに仕事を持っている私と母だけで看るのは不可能と判断。

 施設を経由して、ホスピスへ入る事になりました。

 1月8日。施設からホスピスへ移ったその日、私も有給を使わせてもらい、お医者さんの話を父と叔母と一緒に聞いていました。

桜を見せてもいいですか

 そのホスピスは、桜がきれいで有名なところでした。病室の窓からも綺麗に見えるのだろうと思いましたが、外へ出た方がさぞ綺麗に見えるだろう。

 何の気なしに私はそう考え、お医者先生にこう聞きます。

 「体調が良い日は、桜を見せる為に車椅子で中庭に連れ出すぐらいは良いですよね?」

 すると先生は、少し困ったような顔をして、それでも努めて笑顔を崩さずに、

 「ええ、勿論ですよ。でもね、ホスピスに入るという事は…」

 それ以上先生は言葉を続けてくれませんでした。そうか、婆ちゃんは春までは持たないんだ。そう察してしまいました。

 じゃあ少しでも長く、この人に恩返しをしよう。亡くなる前日の19日まで、10日間以上、1日も欠かさずに祖母の病室へ行きました。

最後まで認識されていた私

 心身の衰弱とともに、だんだんと記憶が混濁していく祖母。姉の事を自分の姪っ子だと勘違いしていたり、父の事は赤の他人だといいます。叔母や母も、忘れ去られる中で、私の事だけは、最期まで忘れずにいてくれました。

 「◯◯ちゃん、今日も来たかね。いつ出られるんだろうね。早く帰りたいね。」

 最期の会話は、もう祖母が話すこともままならない状況だったので、私から一方的に話すだけでしたが、最期まで私の事を私と認識して接し続けてくれていました。

 葬儀の際も、姉や叔母から「お前だけズルい」と嫉妬されました。

誰よりも優しい婆ちゃん

 結果的に沢山迷惑をかけられた孫だったのですが、それも私が人一倍心配をかける孫だったから、優しい婆ちゃんは心配をしてくれたんです。

 人一倍心配をかける孫だったから、最期まで私のことが心配でしょうがなかったのかもしれない。

 「◯◯や、いつになったら結婚するんだ。」

 最期の祖母の心配事はこれだった気がする笑

 ごめんな婆ちゃん、まだまだ心配をかけさせます。

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