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パッションだけで英語が話せるか

先日、母と話していて英語の話になった。私が最近就活のために英語を勉強し直しているという話から、英語でのコミュニケーションの話になったのだ。


「私には細かい英語の知識はないが、パッションがあるから会話で困ることはない」と堂々言ってのける母に私は驚いた。母曰く、ジェスチャーや絵を使えば外国人とのコミュニケーションは容易い。会話とは知識ではなくパッション(=情熱)の問題なのだと。


なるほど一理あると思いつつも、私は少しイラッとしてしまった。母の言い分が正しければ、私は何のために英語を勉強しているのだろう。

それになんだか、勉強している私より勉強していない母のほうが情熱があるような言い方にも聞こえる。わざわざ英語を勉強しているのは私に情熱があるからではないのか。「英語はパッションだ」と言うのなら、文法がめちゃくちゃで発音も不適切な英語は、そのパッションの元、むしろどんどん排除していくべきではないのか。

「英語はパッションだ」と言う人は、結局、大して喋れない現状を肯定して自己満足したいだけじゃないのか?


この後、この件で母と口論になったということは特にないのだが、何だか変な気分になってしまった。大した会話でもなかったのに、私はなぜモヤモヤしてしまったのだろうか?自分なりにその理由を少し考えてみた。


「コミュ力神話」への反発心

件の話の中で、私の頭を「コミュ力」という単語がよぎった。母の話はコミュ力の話である。

わざわざ書くまでもないことだが、ここでのコミュ力とはコミュニケーション能力の略称であり、加えてネット用語としてのニュアンスも含んでいる。最近ありがちな「陰キャ陽キャ」の二分法のように、コミュ力という単語も、「コミュ力がある人、ない人」という二分法をすぐに生み出す。母がコミュ力(つまり、パッション)の話をし始めた時点で、私はこの二分法の元、コミュ力がない人の方に勝手に分類されてしまったような気がしてムカついたのだ。

そもそもコミュ力とは何だろうか。自分が気持ちよく話せたつもりでも相手が不愉快に感じていた、なんてことは会話ではザラにある。コミュニケーションというのは相互的なものであるのに、誰がどの立場からその能力を客観的に評価するのだろうか。

例えば、「情報伝達が正確になされているか」を基準にコミュニケーション能力を評価することはできるかもしれない。しかし、この場合、求められるのは正確な文法知識と語彙力である。ノリと勢いは通じない。コミュ力に必要なのはパッションではなく正確な知識ということになる。

これらはコミュ力に関する文章を読むたびに私が考えていたことである。最近、対立煽りのためかコミュ力を過剰に持ち上げる意見が多く見られ辟易する。母の意見にも、これら「コミュ力神話」の影が見えてしまった。


出川イングリッシュの構造的欠陥

母がこのようなことを言い出した理由は大体予想がつく。テレビでやっている出川哲朗に影響を受けたのだろう。

これも書くまでもないことだが、出川哲朗は主にバラエティ番組で人気のお笑い芸人である。出川の英語はお世辞にも得意とは言えないレベルなのだが、彼自身のノリの良さと物怖じしない性格によって、単語のゴリ押しでも何となくコミュニケーションが取れているような状況になっている。誰が名付けたのか、このような英語は出川イングリッシュと呼ばれ、英会話に対してシャイな日本人にとって心強い後ろ盾となっているのだ。

母に限らず、出川イングリッシュを支持している人は多い。学校教育での、評価されることが前提な英語ではなく、より主体的に発信していくための英語を喋るのだという心構えは日本人にとって新鮮だったのか、はたまた「下手でもいいや」という考え方が単に楽だったのか、出川イングリッシュの登場は、日本人の英語意識を変えるほどの影響を与えた。(言いすぎ?)


しかし私は、数少ない出川イングリッシュ反対派である。

理由はいくつかある。

まず、そもそも主体的に会話するのは当たり前だという考えである。今更出川に教えられることなどないのだ。私達は今までもジェスチャーを使い、筆談を試み、グーグル翻訳を使い、あれこれ手を尽くして英語話者との会話を試みてきた。それを今更ことさらに強調して褒めるのはどういうことなのだろうか。私達は出川に教えることはあっても教えられることはないだろう。


次に、喋れるに越したことはないだろうという考え方がある。これはそのままで、流暢に喋れたほうが会話がスムーズだしミスが少ないからいいだろうという考えである。出川イングリッシュなど、所詮は付け焼き刃か補助輪に過ぎないのだ。すぐに限界がくる。限界が来たら、結局頼るのは自分の知識なのである。


最後に、「聞き取れなくね?」という疑問がある。

ここまで私は「話す側」の話をし続けてきたが、ネイティブとの会話で大事なのは、話すことではなくむしろ聞くことである。

理由は単純で、聞き取れれば相手が話をリードしてくれるからだ。

極論、完璧に聞き取れればこちらはイエスノーだけでも会話は成立していくし、相手の努力によっては深い会話だって可能である。ウミガメのスープなんかはまさにこれを体現している。

完璧に聞き取れなくても、8割ほど相手の言葉が聞き取れれば会話はかなりスムーズになる。英会話が苦手と思っている人の問題は、実はリスニング能力にあることが多いのだ。

このことを考えると、出川イングリッシュの致命的な欠点がよく分かる。話せても聞けないのである。

伝えることはノリでできても、出川の聞き取りは壊滅的である。バラエティ番組で最終的に何とかなるのは、カメラの裏に通訳が付いていて上手く誘導しているからだ。出川イングリッシュを持ち上げる人はその辺が見えてないのである。


これらが私の考える、出川イングリッシュが抱えている欠陥である。

やたらと長くなってしまってしまったが、そういえば母は出川イングリッシュなんて一言も言ってなかった事に気がついた。私が勝手に熱くなって長文を書き綴っただけである。恥ずかしい。


パッションだけで英語が話せるか

結論としては無理である。単純なコミュニケーションはできても、少し内容が複雑化しただけで破綻する。技術的に、パッションが連れて行ってくれるのはここまでである。その先は知識と慣れの世界なのだ。

ただし、心構えとしてパッションを常に持っておくというのは非常に大事である。だが、そんなことは今更私が書くことでもないだろう。誰もが熱い情熱を心に持っているのだ。表面に見えるか見えないかの違いだけで。


HAPPY BIRTHDAY MY MOM 

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