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日本人の理想はやっぱり村社会か

宮本常一著『忘れられた日本人』という本の「子どもを探す」という章に、親に叱られた男の子が家を出たまま行方不明になり、村(集落)の人たちが総出で探す話があります。
 
その子は、納屋でふて寝していただけで、無事見付かったそうです。ところが、村の青年の一人は、遠くの山寺まで探しに行ったため、見付かったという知らせの放送が聞こえずにずっと探し回っていました。
 
そして、遅くに帰って来て、すでに見付かっていたことを知りました。それなのに徒労を嘆くことも怒ることもなく、文句も言わず、さも当然のことをしたまでと言った風に、良かったとだけ言って帰って行ったそうです。
 
明治中期の産業革命以前は、村の主な生業は農業でした。稲作は生業の王様といっても過言ではありませんでした。とはいえ、農業だけをしていたわけでは無くて、小売りや行商、仲買い、卸しなどの商売や、大工、左官、農鍛冶、糸紡ぎ、機織りなどを副業としている家もありました。
 
トヨタ自動車の創業家も大工を兼業する農家でした。農業には作物によって暇な時期、つまり農閑期があります。この時期なら別の仕事が出来ます。
 
また、商売や手工業は、景気変動の悪影響を受けます。自身の田畑は持たないこうした生業に従事している人々であっても、田畑を請作すると暮らしが安定するため、諸職の中にも小作として農業に携わる人々もいました。
 
ちなみに、取れ高の分配は、地主と小作人で半分ずつが基本です。そして、持高に掛る年貢諸役などの上納は、地主が支払いました。それなので、小作人5割、地主2割、上納3割だったようです。案外悪くはありません。
 
さて、田畑を持つ村に住めば、自作農と小作農の違いこそあれ、ほぼ全世帯が農業の同業者となります。田植えや稲刈り、年貢の上納のための運搬など、大変な作業は「結{ゆい}」という共同作業で助け合いました。
 
ところで、先ほどの子供を探す話には続きがあって、一生懸命に探すのは昔からの村人で、ろくに探さずにたむろして、その親子の噂話などをしていたのが新たに移って来た人々だったとのことでした。
 
この両者の違いは、農業という生業を通じた互助の経験があるかないかなのでしょう。戦後の話なので、新しい住人は農業を生業にはしておらず、会社や工場に勤めに出ていると思われます。つまりただのご近所さんです。
 
昔の人々の一生は、村で生まれればそこで育ち、長じればそこで働き、老いればそこで死にました。まれに他村へ養子に出る人もいましたし、通婚圏が広い地域では、他村へ嫁ぐ人もいました。それでも、たいていは村の中で一生を終える人生でした。それなのでそこには、兄弟姉妹を始めとして、従兄やはとこ、幼馴染たちがいました。
 
私の祖父は農家で、まさに村の人でした。稲が暇なときに、近くの畑の世話に出ると半日は帰って来ませんでした。別に脇目もふらずに働いているわけではありません。帰って来ないのは、行き帰りに知り合いに会って長話をするからでした。村の中では、老人に孤独はありません。
 
村出身の昔の偉人たちは、その役目を終えると村へ帰りました。中浜万次郎や船津伝次平がそうでした。なぜ帰るのかと言えば、そこには上述のとおり、親族や友人知人など、一生を共にする仲間がいるからです。
 
そう考えると、かつての村は、理想的なコミュニティーであり、分かってもらえる、分かってほしいという気持ちの強い日本人にとっては理想郷なのでしょう。
 
翻って今の我々は、学業の卒業や就職、転職、退職などの人生の節目に出会いがありますが、別れもあります。そして、定年退職後の老後は、ややもすれば独りぼっちです。故郷に帰っても、近所は知らない人たちばかりです。没交渉な旧友に連絡を取ることをためらう人は少なくないでしょう。
 
定年退職がなくても、職場は生涯の居場所ではありません。リストラや会社の倒産、廃業、待遇の悪化、新しい目標など、転職は珍しい出来事ではありません。そして、そのたびに人間関係も改まります。辞めた職場の人たちと会うことなんてこともありません。
 
昔の村は、お互いに良く知った者たちの互助のコミュニティーでした。現在、知識人の中には、行政サービスの不足をご近所さん同士の助け合いで補おうと主張する人が少なからずいます。古き良きかつての日本がそのモデルなのでしょう。
 
ですが、昔の村とは違っていて、ご近所さんはただ近くに住んでいるだけの人々に過ぎません。その存在は極端な言い方をすれば、たまたま同じ電車に乗り合った人とたいして変わりません。
 
互助を可能とするコミュニティーは、やはり地縁的な同業者の集まりでなければ難しいと思われます。なぜなら、人生のほとんどは、職場で働いているか家で休んでいるかだからです。現在、職場の同僚は、同じ地域のご近所さんとは限りません。みんな遠くから通っています。近所に住む人々は、話す機会などなく、勤め先も知りません。
 
ただ、理想郷であるかつての村にも負の側面があります。諸事をみんなに合わせなければならないことです。
 
越後国蒲原郡菅田村(現・新潟県胎内市)は、寛政八(1796)年に近隣の中村浜村三郎左衛門より1430両余を借り入れました。
 
本来、借金は個人で行うものですが、これは村の名義で借り入れるという珍しい事例です。担保は村の田畑と屋敷地です。もちろん家ごとにそれらの資産の額は異なりますので、各家の持高ごとに借金を割り付けました。
 
菅田村の戸数はおよそ100軒ですが、カネに困っていたのはその内の30数軒でした。それなので、おそらく入金後に、それをカネに困った村人に融通したのでしょう。
 
この1430両という借金がどれほどかというと、当時の公定相場では、米1石に対し金1両でした。菅田村の表高は530石です。これは今で言う税込み収入です。それなので、年収は金530両となります。つまり、税込み収入の3倍弱の借り入れです。
 
返済は毎年滞り、借り入れから16年後の文化八(1812)年には4805両にまで増えました。利息として支払う米は年260石余りとなりました。年貢上納米は225石ですので、菅田村の可処分所得は、40石弱となります。1軒4人家族として、100軒の菅田村の人口は400人とします。すると、一人当たり年間100合しか食べられない計算になります。太陰太陽暦は年360日なので、一日当たり2.8勺です。もう食べる物にも困る状態です。
 
村をまとめていた庄屋代(庄屋は中村浜村三郎左衛門が務めていた)門助は、首が回らなくなった村人たちの助けとなるべく質屋を開業しました。
 
その善意も焼け石に水だったのでしょう。翌文化九年、庄屋代門助の弟である助左衛門を主立ちとして、支配の出雲崎陣屋に窮状を訴え出ます。幕府領ですが白河藩の預かり地で、そこの代官が支配していました。
 
もちろん、当時も民事不介入です。代官に出来ることは、返済計画を立てさせて調停することぐらいです。
 
菅田村代表である仲右衛門(どうやら未婚のようで若者らしい)は、論人(被告)の中村浜村三郎左衛門に、借金の証文や小前帳(おそらく担保が記載されている)を差し出させるよう代官へ懇願しました。どうも江戸者の公事巧者に入れ知恵されたようです。
 
公事巧者とは、公事(裁判)に巧みな業者の事で、訴状の案を作成したり代筆したりしました。それなので、自身に有利な裁判がしたければ、こうした業者が必要です。
 
さて、論人の三郎左衛門は、
「あちらに無い物は、こちらにもございません」
と申し上げて、それら諸帳面を差し出しませんでした。
 
どうやら、菅田村側の申し出は、当時の詐欺の手口で、三郎左衛門が言われたとおりにそれらの諸帳面を出すと、
「これは、私どもが承知している内容とは大いに異なります。論人は、愚昧の私どもをたぶらかし、偽りの内容の証文を拵え、多額の米銭を詐取した大悪人です」
などと訴える策だったのでしょう。詐欺は盗みと同罪でしたので、数千両となれば打ち首は必至です。さらに闕所(財産没収)となれば、借金は帳消し、質に取られた田畑や屋敷地は返って来るとの算段だったと考えられます。
 
三郎左衛門は、北越後という片田舎の浜に住む不在地主でしたが、目の前の海には多くの北前船が行き来していました。そして、三郎左衛門自身も300石積みの船を所持しており、北は蝦夷地から南は越前、あるいは大阪まで船を回していました。それなので、その耳には津々浦々の出来事が同業の船主や船乗りの口を介して入るのであり、典型的な詐欺の手口など百も承知だったのでしょう。
 
代官も和解を提案しました。
 
一発逆転の目論見の外れた菅田村仲右衛門は和解を拒みました。そして、助左衛門に事後の策を諮りました。助左衛門は村内の結束を図るため、一枚の起請文を認めました。内容は、三郎左衛門との出入り(訴訟)に勝利し、その首を氏神に奉る、という内容でした。どうやら、このときに打ちこわしを企てたようです。
 
これに、一人だけ反対する村人がいました。百姓代の与五左衛門です。彼が反対したのは、おそらく打ちこわしの企てが拙いと考えたからでしょう。下手をすれば多くの村人が獄に繋がれます。しかも、当時はすでに十数件が夜逃げをしており、さらなる人手不足を恐れたのでしょう。
 
至極もっともな反対でしたが、与五左衛門は村八分にされました。暮らしに困った彼は、村の総意に反したことを詫びて仲直りをしました。
 
この直後、文化十一(1814)年に岩船蒲原両郡騒動と呼ばれる打ちこわしが発生しました。最大5000人が参加したと言われています。中村浜村三郎左衛門方を始めとして、近郷の11軒の村役人や金持ちの家が打ちこわされました。三郎左衛門に至っては、殺せと叫ぶ騒立ちの者たちに追い回されました。
 
この打ちこわしの吟味では、菅田村の者たちが多く捕らわれて拷問に掛りました。それは苛烈であり、親の前で子を責めて白状を迫るなど御定法にもとるものでした。結局、助左衛門を始め多くの者が遠島や所払い、追放となりました。
 
与五左衛門の言ったとおり、菅田村は多くの人手を失い、以来数年に渡って苦しみました。しかも彼は、激しい拷問で体を悪くしてしまい、翌年の裁きを待たずに亡くなりました。
 
生活も生業もすべてを委ねる村の暮らしは、困れば助け合うという良い面があります。ですが、みんなには逆らえないという悪い面もあります。一度村の総意となれば、たとえ正論を言おうとも許されないのです。
 
現在は、町内会に入らなくても、会社の組合員でなくても行政サービスを受けられます。それでは補えないなら、業者にお金を払うことで様々なサービスを受けられます。お金が必要ではありますが、それさえあれば暮らしに困ることはありません。
 
もう仲間に頼らなくても生きて行ける世の中なのです。人に合わせなくても、自分の意見を曲げなくても生きて行けます。言ってはいけないようなことをわきまえる必要はありません。正しいと思うことを自由に言えますし、好きな格好も出来ます。弾かれれば、転職や転居をすればいいのです。でも、それと引き換えに生涯の仲間を失いました。もう、その時々の利害で離合集散する一時的な人間関係である仲間しかいません。
 
先ほど理想郷だと言ったかつての村も、その維持のためには、持つ者と持たざる者のけじめがありました。それは、本百姓とそれ以外の関係のことです。
 
本百姓は村の正規の構成員です。彼らの間では、平等な義務と権利がありました。義務は村の入用を持高に応じて負担することや、結(共同作業)への参加、道役(道路の整備)を務めることなどです。権利は、田畑に利用する水や入会地の使用などです。
 
ところが、本百姓でない者には、義務がない反面、権利もありませんでした。ただし、時代が下ると、本百姓に加わる者は増えて行き、わずかな田地を所持している者も含まれるようになりました。それでも、仲間以外はみな風景(宮台真司氏の言)といった状況は変わりません。
 
現在、官民問わず職場には、正規雇用と非正規雇用があります。それぞれ義務と権利が異なります。

不景気時にリストラがあるため、ヨーロッパをまねてワークシェアの導入を主張する意見がありましたが、経営者は非正規雇用の人々の大量解雇で対処しました。それに対し、企業ごとの労組は異論を唱えませんでした。正規雇用という仲間以外の解雇は、ただの出来事という風景であり他人事なのでしょう。産別の労組は騒ぎましたが、それは非正規雇用の労働者も組合員にしていたからです。
 
非正規雇用の問題は、雇用の不安定の面ばかりではありません。搾取も問題です。
 
彼らはたいていの場合、正規雇用に比べて昇給がほとんどありません。言い換えると、経営側は非正規雇用の将来の昇給分を搾取していることになります。そもそも非正規雇用が増えたのは、人件費抑制が目的です。
 
搾取は一部の労働組合もしています。日本は企業ごとに労働組合を組織しています。これは正規雇用の人たちの組合です。ところが、こうした正規雇用の組合に、期間工などの非正規雇用を加入させるところがあります。トヨタ自動車がその例です。
 
一見良さそうに見えますが、減産による雇用調整の場合、正規と非正規で利害が対立します。組合は会社に対して、期間工の雇用の維持を求めますが、言うだけです。この要求のためにゼネストに突入することは絶対にしません。なぜなら、彼らからしてみれば、自分たちの雇用を維持するための期間工の雇止めだからです。期間工を辞めさせなければ、自分たちの給与が減らされ、最悪の場合仲間の誰かが解雇されます。それに、職務を放棄して失う日当も惜しいでしょう。それなので、ただ言うだけに過ぎません。
 
組合費は正規雇用よりは安いとはいえ、期間工からも組合費を徴収します。拒否すれば雇用期間の延長はありませんので、事実上強制です。それなのに、お金を取られるだけで何の役にも立ちません。原因は、組合の役員に期間工が就けないからでしょう。ともあれ、こうして組合費が増えれば、接待交際費が増やせますし、大好きな政治にもっと献金を注ぎ込めます。
 
余談になりますが、企業の健康保険組合も期間工を搾取しています。期間工も健康保険料を毎月支払っています。しかし、大病を患えば雇止めになります。つまり、肝心な時には使えないのです。それなので、少しでも元を取るため入社後にせっせと歯医者へ通うとのことです。
 
所得の分配のあり方に問題がある上に、経営側だけではなく労働組合まで搾取を許す雇用制度は、とても健全だとは言えません。
 
国も、有期雇用に年限を設けるなどして、雇用期間を設けた非正規の雇用制度を使いにくくしています。その狙いは、かつての正規雇用が当たり前だった時代に戻したいのでしょう。
 
ですが、グローバル化が進む社会では、競争は製品やサービスの価格で行われます。コストの大半は賃金なので、正規雇用を増やすなら、その賃金や待遇を下げなければ競争には勝てません。なぜなら、彼らの賃金体系は、グローバル化が今ほど進む以前の、関税障壁があったころに出来上がったからです。
 
また、自治体でも非正規雇用は増えています。年々行政サービスの向上が求められて業務が増えても、人件費に回せる予算には限りがあるからです。
 
フルタイムなのに雇用を正規と非正規に分ける形態には問題があるとはいえ、元来日本人は、仲間とそれ以外を区切り、その仲間内だけで助け合うことが好きなのでしょう。ですが、その仲間の輪をかつての村の本百姓のようにもう広げることは出来ません。
 
結局は、以前のような雇用環境には戻れず、ヨーロッパの雇用政策もそのまま真似れば済む話でもありません。やはり日本的な村社会の要素がなければならないのでしょう。
 
歴史は、公平な分配を求める動きの中で時代の流れが起こります。不公平な分配は、社会不安や停滞の元凶です。公平な分配とは何であるかとの議論が求められますが、机上の空論という言葉もあります。やはり我々自身の少しでも暮らしを豊かにしようという一人ひとり活動の中から、是正する方法が見付かるのを待つしかないのでしょう。長い年月が掛かると思われますが、これを見付けたときが下り坂の底であり、また日本は上り坂に差し掛かるのかも知れません。

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