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2019年9月20日

この前の晩、母ちゃんは殆ど寝ることができなかった。よろけながら、何度もトイレに行きながら、一晩を堪えに堪えた。朝5時半、タクシーを呼んだ。運転手さんが子育てを終えた女性の方で、全てを理解し、母ちゃんを励ましながら病院まで優しく運んでくれたことは本当に幸運だった。どれだけ力づけられたか知らない。

子宮口が十分開くのを病室で待つまでの時間、母ちゃんはじっとしていられず、目を開けるのもやっとだった。何かあったら呼んでくださいと言いながら看護師さんが部屋を出た5秒後には、母ちゃん自らボタンで看護師さんを呼ぶというのを2度3度繰り返した。なりふりを構う必要がどこにあるのか、というような迫力さえあった。

やっと分娩室に入ると、母ちゃんの様子が異様に落ち着いた。分娩室に入ることができたことで安心したのだろうと僕は思っていた。

そうではなかった。陣痛が急に弱くなってしまっていた。しっかりとした陣痛がなければ、出産は難しくなると、後で知った。

分娩が始まると、先生が他の先生を呼び、また他の先生を呼びで、母ちゃんは6人もの先生たちに囲まれた。立ち会っていた僕は、壁際まで引くしかなかった。

一人の先生は、分娩台に乗って膝立ちし、全身の体重を使って母ちゃんのお腹を繰り返し押し込んだ。命を救うためだから骨の1本程度は折らせてもらいます、文句は言わせません、というほどの気迫があった。母ちゃんはいつ気絶してもおかしくない状態に見えた。体が勝手に乱暴に呼吸だけをしている、という風だった。僕はもう、何の意味もなくそこに存在していることをただただ恥じていた。

おめでとうございます、生まれました。

パッと顔を上げると、弱々しい赤ん坊の姿が見えた。「呼吸を上手にコントロールして、旦那さんはテニスボールをうまく使って、赤ちゃんがだんだん出てくるからね」みたいに事前に学んでいた状況になることもなく、すぐに出た、いや引っ張り出された、という感じだった。そして、どう考えても分娩室内に「おめでとう」な雰囲気はなかった。

母ちゃんは痙攣していて、何やら液体が次々に、腕からその体に流し込まれていた。息子を処置してくれている看護師さん2人からの「元気ですよ~」の言葉は、医師6人に母ちゃんが囲まれている現場にいる僕の耳からすぐに抜けて消えていった。

少しして、長男を抱けた。なんとしても守るべき長男をじっと見つめ、話しかけた。そのすぐ隣では、母ちゃんが、やっと産んだ息子を抱くこともできず、体を震わせて苦しんでいた。

9:50に産まれたのに、やっと両家に連絡ができた時にはもう、2時間以上が経っていた。

その後、全身にある血の半分程度、2リットルを出血したのだと聞かされた。一か月間の外出禁止令も添えられた。100年前なら、どちらかは命を失っていたのだろうと思った。

何の役にも立ちはしないけれど、立ち会ったことは、本当に良かった。でなければ母ちゃんが命を懸けている様子を見ないままでいたのかと思うと恐ろしくなる。「2リットルの出血と、出産後の処置に2時間を要した」と言葉で聞くだけでは、起こったことの重大さを何一つ理解できないままだったと思う。

やっと息子を抱けた母ちゃんを30分かそれ以上、ただ黙って見守った後、漸く入院のための病室に移動できた。窓の外の青空を、白い雲たちが北に流れていた。

そこで僕も、なんとかある程度落ち着いて、しっかりと息子を撮ることができた。無事に生まれたことが奇跡だという意識だったので、その上目も鼻も口も指も指紋までもしっかり存在していることに感謝していた。

退院直前

翌日以降、病院では、出産を終えた母親向けの勉強会が複数回開かれたけれど、そんな状態だったので、母ちゃんは出席することもできず、退院の日までほぼ病室に閉じこもったままだった。

退院して一か月が経たないうちに、それまで闘病していた義父、母ちゃんの父親が、若くして亡くなった。長男を初めて湯船に入れたのは、義父だった。「私はずっとパパっ子だった。今もだけど」と、母ちゃんから何度も聞いていた。

義父の家に飾られていた息子の写真

ありきたりな表現だけれど、長男は天使だ。母ちゃんの日々の努力が、彼を天使にしているのは間違いない。けれど同時に、長男は、母ちゃんの筆舌に尽くしがたい苦しみを少しでも癒すために、天から使わされてきた特別な子のではないかと、メルヘンチックに過ぎるけれど、思いたくなる。

今日であれから3年。

母ちゃん、ありがとう。

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