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「絵に関する嫉妬について」

そんな事を今回は考えます。

「うわ…これ凄い」
そう感じる絵って個人的に「綺麗なだけ」ではない気がします。
それを飛び越えたメッセージ性がその絵に詰まってる。
その人の人情とか心が見え隠れする絵は、
まるで会話をするように観ることが出来ます。
わたしはそれがたまらなく好きだし、そんな絵を描ける人を尊敬します。

わたしは絵が上手い人を見ると、当然「すごいな」と感動します。
と同時に、羨ましいといった感情(多分嫉妬に似たもの)も
ふつふつとわき上がってきます。
きっと他者と自身をしっかり切り離して
考えられないタイプの人間なんでしょう。

わたしはそれを必死に消し去ろうとしますが、
消そうとすればするほどむしろ大きくなる。
ろうそくの火を吐息で消そうとすれば
炎がむしろが大きくなってしまうように。

その嫉妬の発症源をたどってみると
その人の精神力の凄みを感じたからであって。
そう思うと絵を描く上で、
どこまで精神が強くなければいけないのかなと気になりました。

絵を描き続けるには、何より器が大きくないといけない気がします。
才能の有る無しを飛び越えたものがそこにあるような気がしてなりません。

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ここで出てくる言葉が「努力」です。
「では努力すればそういった絵が描けるのでしょうか?」

わたしは「努力」と「無」って似ているなと感じます。
それは努力すればするほど自分の無力さに気付くじゃないですか。
努力って茨の道を進むようなイメージがあるけど、
わたしの認識は違っていて、
むしろ自分の中をたどっていく行為だと思うんです。
その道中見え隠れするのは善悪関わらず「真実」であり、
それを受け止める心の強さを確かめられる。
わたしは未だにここで立ち往生してるなって感じます。

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大丈夫、努力を続ければ必ず報われる。
誰にも見られず血反吐いて努力したものが夢をみる。
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自己啓発本に書かれていたこんな言葉に
勇気を貰っていた時期もありました。

だけどそれって結局、その本の作家さんの体験談であり
自分に当てはまるかというと、必ずしもそうではないんですよね。
美しい言葉の裏には何かしらの黒い哄笑があるもの。

足を踏み出すのに、誰かの言葉に勇気を貰うことって絶対必要です。
でもそこから先の道筋まで本や人に頼ってばかりだと
寄り道ばかりで「これは本当にやりたかった事では無い」
みたいなことになっちゃう(わたしみたいに

マイペースでいいんですよきっと。 それぞれのスピードで。
(ちなみにマイペースってゆっくりという意味じゃないですからね)

だけど内心はこの道で本当かな大丈夫かなって思いますよ。
もちろん怖いですはい。 

本当に努力するほど感じるのは「無」
なにもない、からっぽなんですよ。
人体を容器にたとえるなら底が見えている状態。
「ああ、まずいなにか詰め込まないと!」
と慌てていろんな情報を詰め込んでみるけど
いらないモノが多すぎて結局捨てる。
もっと器がでかくないとなあと感じます。
もちろん無に耐える精神力もほしいです。

こんな時代だからこそ難しく考えず
明るく自由に描いていればいい、といった意見もあるでしょう。
ですがわたしは逆だと思います。
(なぜか。この話は長くなりそうなので次回)

とにかく一表現者でありたいなと思います。
人様に触れる絵を描いているわけですから、
それなりの節度と心構えを持っていなくては、と感じます。

イラストレーションならそのあり方を、
絵画ならそのあり方を考えなければいけない気がする。
もちろん自分が好きなように描く事を悪いとは言ってないですよ。
社会と関わっていくためのツールとして絵を考えているのであれば
そう思うべきと感じます。

とにかく仕事の細々としたことを理由に、
時間が無いからと逃げることはせず 絵の力を信じ、
それに向き合うことで何かが見えると信じています。

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はぁぁ、今回も整理出来なかった… 
いっそのことタイトルを「思考の失敗」に変更しようかしらね。 

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