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いつの間にか創作論(7ヶ月目時点)

おはようございます!7:28。昨日は妹が木更津までストレイキッズのライブビューイングに行っていたので22時半くらいに家から15分くらいの電車で行ったら乗り換えが必要な駅まで迎えにいきました。始め帰りの時刻を聞いたときはおせえなと思ってもう横たわっちゃってるしこれから洗濯物干しがあるからといってついでにやるには重すぎる仕事だぜと、右にも左にもつかず、その時間までは連絡が来た時間からまだ50分くらいあったので、あと40分になるまでいったん放置してたら、催促にしてはずいぶん早めに妹から電話がかかってきました。そういうところには余念がありません。母も残業で相当帰りが遅かったですし、父はこの時間お酒を飲んでしまっているのでまあ僕がどっかしらまで迎えに行くことは仕方がないとして、家の最寄り駅まで来てくれたら相当楽なんですが、すると乗り換えが発生するので今度は到着時間がだいぶ遅れます、22時半以降ともなると20分に1本くらいでしょうか、さすがにもうちょっとあるのかな。帰ってきたら23時半という事態は避けたかったので、乗り換えの必要がないひとつ隣の駅かも乗り換えて一駅目のほうもたいして距離が変わらなかったので、あまり行き慣れていないというかその駅のロータリーになんて一度も足を踏み入れたことはありませんが、まあどうせなら慣れたおもんない道より冒険が欲しいよなとこっちでお願いしました。提案したその時の僕は迎えに行く駅の変更によって何かお互いにすごく負担が減るような画期的な案だと思っていたのですが、そういえば家の最寄駅からその駅に行くのに乗り換えが必要なだけであって、初めに迎えに行こうとしていた駅、電車であればここが乗り換えの中継地点になりますがここと実際に行くことに決めた方の駅は同じ線のひとつ手前か奥かという関係でしかなかったので、本当に通り慣れた道かそうでないかという違いしかありませんでした。ただ前者は三つの線が通っているようなそこそこ大きな駅なので、ロータリーに停められるかな、停められなかったらぐるぐる回れるような経路はあるかな、という不安を抱かずにいられたのは夜更けのマイナー駅がもつ大きな武器だったと、翌朝起きてから思いました。まあ最近は音楽でも聴きながら夜遅くにちょこっとドライブするのも悪くはないなという気分も湧いてきているので、あまり頻繁にあることでもないですし腰を上げてみればなんてことはありませんでした。てかめちゃくちゃ近かったし。

8:16。専門学校に向かう妹を駅まで送ってきました。帰ってきて、今日は夕方から泊まりがけで出かけるので明日の昼ごろ帰ってくるよ、妹は学校から一度帰ってきてからバイトに行くらしいから二人とも夕飯はいらないよと連絡しました。これであとは何してもよし、を早めに積み上げていきます。そうそう、この前10月分の収支の最終(仮)決算(社会保険料が読めない、残業代もそうだが計算するのが面倒くさいので概算)を出したのですが、なんと臨時収入がありました。月の初めに熊本旅行に行った際、ガソリン代と高速道路代はパッキリ真っ二つに割ろうと彼女と決めたのですが、それの彼女分をもらうのをすっかり忘れていたのです。帰ってきた直後はそりゃあもうもらう側ですから、というか返す側でも忘れないうちに消すようにしているこの2年間ではありますが、まあ催促するような文面で頼むつもりはなかったので気をうかがっていたらそのうちに忘れてしましました。こういう口約束でのお金の立て替えというのは返す側に全権が委ねられている感じがしますね。こっちはもうあっという間に忘れちゃいます、一円十円を争うやりくりをしていたころの、つまり半年ほど前の僕であれば躍起になって忘れないようにしていたかもしれませんが、そういうところに体力を使わないようにしながらも、ざっくり使う分、もらう分、生きるために、死なないためにどれだけ必要なのかというのを実家暮らしだったり、アルバイトだったり、そういった個人の事情を特質としては見ずに、ただ俺はこうしたらいきていられるんだと計算しながら少しずつじゃあもっと勉強したいのはどこかな、出資は切り詰めた上で、まだカンナの下にはどれだけの大きさの木材があるだろう、あるいはさっき削っちゃったなかには重要な削りかすがあった気がする、これを反芻し続けるというよりは、なんかこの木材削っても削っても無くならなくてですね、ていうのも地盤から生えてきているものをそのまんま削って形にしているので、とはいえ無限ではないというかデリケートな素材であることは間違い無いのでぞんざいには扱えません。削った部分はそりゃ元には戻らないですからね。それでも似たような部分を再度発見したりします。そのときはどれだけ残すのに手間がいるような部分であっても必死に守ります。これは僕自身の造形なんですから。僕による、僕が生きるための造形、のはずなんですが、となるとそもそも僕とはなんなんだという定義づけからしなくてはならないような気がしてくるので、別に今しなくてもいいように僕という言葉を使う回数を減らします。それも今形作ってる最中なんだろうがよ、黙っとけよと口をつぐんでまた作業に戻ります。今やってるのはそういうことなんだと思います。毎日毎日、坂口さんみたいに生き死ににかかわるようなクリティカルなことを書いているわけでもない(気がしてしまう)し、かといって千葉さんみたいにたゆまず勉強できるわけでも無いし、というと勉強を「なにかを読むこと、見ることに徹すること」と捉えているようで浅薄だな、僕はまさにかぎかっこに閉じられたことができないというだけなんだよな今わかっているのは、いやわかっているのか?という問いは一度ふわふわさせといて、言葉遣いも適当、文字数稼ぎにしか見えない部分も多く、なにより取り上げることのスケールが小さいように見えるこの日記(のような何か)を書く上でも一応は、これをやって何になるんだ、しょぼすぎるだろうやってることがと思う瞬間がないではない。結構あるんだがダイレクトにそう書くとそういうことになってしまいそうだから、文を分けて「まあ厳密には、」みたいな構成にする。僕はこれを書き始めて間もない頃、いつから始めたんだったか4月ごろかな、何を原動力としていたかというと坂口恭平さんの「躁鬱大学」を読んでこれ俺のこと書いてんじゃん、本で何がすごいかって、最近社会でトレンドの、射程範囲の広い便利ワードを使って間違いのない文章を作る、分量は少ない方が粗が見えなくて吉、みたいな洗練されているようでぼやかしているだけの、あるいは無自覚なままそうなってしまっている文章ではなくて、彼がこうしていなければ生きられなかったということを極めて個人の事情として、しかし彼もまたそうすることで心が軽くなる人がいることをわかっているような口ぶりで、文体とかそんな目に見える、目にしか見えないようなもんじゃなくて魂で書いた文章ってものには口ぶり、言葉尻というものが温度を介して、空気を伝ってこちらに語りかけてくるんです、きっと坂口さんも神田橋條治先生の語録を読み漁ってそれを、目の前にいる一人をより深いところまで潜っていって救いにいこうという心意気、気概、そういうものをともなった本気の意思疎通、コミュニケーションという言葉も今やぶくぶく太ってなんでもありの、詐欺師がそれをいいもんだと思いこませるために使うような言葉になってしまいましたがもちろんそんなでかいだけの言葉ではない、削ぎ落とし削ぎ落とし、本来の象形的な意味での、前にも一度書きましたがだから語源を調べること、どう使われてどういう意味だということになってきたかの歴史を知ることは効果的なんでしょう、本当に人が救われるような、平易でこねくり回していない、深いとかわかりやすい、というのがまた便利ワードになっちゃってるからややこしいし、かくいう僕の使っている「便利ワード」もこれからその範疇に入っていってしまいそうですからこの手触りを今のうちに確かめておかないといけませんが、とにかくそういうクリティカルだと僕が感じたような文章を書き、そして本という形にして残すためには、やはり僕が僕のことを書いていくしかないんだと思うんです。僕は躁鬱体質なのが関係しているのか、というか関係はしているんですがそれがたった一つの根拠だとは思わないという意味で文末を濁しましたが、目まぐるしく心象風景が移り変わっていきます。なんとか坂口さんを見つけ出して、もう絵だったか文章だったか音楽だったか忘れましたし、それがまた彼の面白いところというかなんでそれを分けて味わわなきゃいけないんだ、それぞれに歴史があって偉そうに攻撃するのは間違っているけど、というかそれは自分が多少詳しいと思っている事柄に対しても同様(ではありませんがグラデーションでいう近い色ではある)ですが、それが彼から勝手に教わったひとつ、創作の原理です。繋がっているようでまた話がそれましたが(というか僕は注釈を別途記載にしないとただ読みづらいだけの難関入試問題【英語】みたいになりかねないので気が向いたら書き方を変えていきます)、ざっくり「俺のために書かれてるじゃん、俺の心をすくうようにできてるじゃんこの文章」と思ったんですね、躁鬱大学を読んで。僕は型から入るのも好きだったのでじゃあ人を救うために、僕個人のことを書いていこうと意気込んで毎日文章を書き始めたんですね。ただその意気の内訳が、人を救いたい4割とかになっちゃって、自分を救う方法さえわかっていないのにどんどんアイディアばっかり書いていたら、なんか本当に何してんだかわかんなくなっちゃったんですね、しかもここまで7ヶ月弱くらい書いているうちの初めの4ヶ月半は文量も安定しなくて、というかこういうことを、人を救うような、というイメージがクスッとさせるとか感動的な雰囲気を醸し出すみたいなイメージしか湧かなかったので、すると文量を削ってでもいい感じに終わらせる、ここ下手くそだな、上手くないなという箇所を物理的に減らすためにあれやこれや工夫し出すわけです。それじゃあまず俺が救えていないじゃないかと、千葉雅也さんが駅前とかでやっている動物愛護団体の活動を見たときだかに「まず人だろと思った」みたいなことをTwitterでつぶやいていましたが、「まず俺だろ」と思ったんですね、思っていったんです徐々に。それでも続けたのは偉かったですね。まず俺を救うために何をしたかというと、文量のノルマを固定しました。村上春樹先生、坂口さん、ときて俺。悪くない、春樹先生も誰かの真似をしたのかもしれない、というか多分そうだろう。1日10枚書こうとすると何が起きるかっていうと、その一文のうまさとか気にしている暇がない。慣れないうちは1日4時間とか平気でかかりますから、フリーターとはいえバイトで8時間拘束されている時とか彼女と1日家にいるような日とかは特に、なんでもいいから、でも思ってないことは書けないですから、って言おうとしましたけど思考のなかにないようなことも結構書いているかもしれない、何が内で何が外かってのもまた曖昧で、パッと無作為に拾い上げたデジタル時計に映った時刻とか風の強さとか母が起きてきたタイミングとか、それって僕の外側にあるようで僕が目で見ているものですよね。時刻をみて、風の強さや陽の光、あるいは誰かの言葉を受けて立ち上がってきた色や柄、風景みたいなものは僕が考えているから内側にあるようで、勝手に突き進んでいっている「盲目的な意思」(ショーペンハウアー曰く)のようなところもあるから、外側、郡司ペギオ幸男さんのいうところの「外側ではなく外部」ともとれるわけです。だからまあ、思ってるとか、本当は思ってないとか、そんなしゃらくせえ括りでは書くことを決めない、そうしないことを今は重要だと思うし、なによりいつだってそんなことに縛られながら書き切れる、埋め切れるスペースではないんです。それは己の練習不足に打ちのめされうる場所でもありつつ、なんでも書いていい、幼少の僕が初めておおきなスケッチブックを手にしてたときのとめどない、ただとめどないイメージの広がりを思い出させてくれるものであり、忘れているだけで、またそうやって楽しむのは難しいことじゃないよと教えてくれているものでもある。でも僕はこれを人にやれと言ってはいけないのだと思う。少なくとも今は。俺のことで手一杯というのもあるし、なんというか昔から「本を読め」って本読んでないやつばっかりいうな、または「読むこと」「字面の長さを踏破すること」だけに気がいってて、肝心の彼のいうことになんにも心惹かれないような人しか言わないなーと今に至るまで文句を言いたい気分でいるのですが、だからなんていうんでしょうね、「本」ってのがざっくりしてるのももちろんいけないんですが、読めがダメ?いややっぱり「本を読め」がダメだよな。俺はこんな本のこんな一節を読んでこれ書いてます、これ作ってます、で作られたものを見たときに初めて僕はおおもとの本に興味を示すんだと思います。だからもう、本を読みました、感想はこうです、だけでも魅力的な文章にはならないし、いやなるか、文章にしたためてるんだから。したためるって、漢字「認める」なの?困惑してます。もういいんです、大枠のことは。楽しくなっちゃって創作論みたいに書いてきちゃいましたが、今はもう見えるものをガシガシ書いていく、強いていえばそこにまず目が向いていて、そこに移行したのがつい最近、1週間前くらいなんですがずいぶん書き進めるのが楽になりました。もうちょっとこれで続けてみます。腹減ったわ。9:46。昨日大学時代の友人との交換ノートに、ついに自作のラジオ番組(30分弱)を投稿した奴がいて、なんか飛び石のようですが、みんなと離れていっている部分だけが目についていたけど、変わらず、いや変わっても繋がっている部分なんか難しいこと考えなくても作れるんじゃないかと思いました。あれは声になって彼が話していたのが良かったのか、自分のことをひたすらしゃべっていたから良かったのか、またこれまでの他のメンバーが書いたことに言及する量の塩梅がよかったのか、何より俺が、彼がちゃんと間のCMまで作っていたことに感動したのか、全部感じたことですがそこの内訳、比率はよくわかっていなくて、元々直線で分けれられるような円グラフではないはずなので考えなくてもいいことのように思えますが、クリティカルな部分は探していきたいですよね、何が俺にとって面白かったのか、そして僕は俺のターンの交換ノートなのか、あるいはここなのか、それについて気が向いたら書いていくんでしょうね。それにしてもついつい向こうに書くときは格好つけてしまって、こっちの内容とも絡められたらと思っているのですがリンクを貼っても手間が一つ増えるしなあ、と思っていたところで、タケダがあげたラジオ番組とその作り方と軽いメッセージが結果的にこわけにされて二つ三つくらい同時に上がっているのをみて、ああこれかもと思いました。ダブル文章になっちゃうのが嫌だったのが大きいから。あとこんだけの分量あそこにはっつけるのはちょっと圧迫感が出るかなと思っていたのですが、なぜかその不安も同時に剥がれていきました。もう貼っちゃえばいいや。ほんでそれだけだとズルいから、というかせっかくだからもっとなんか作りたいのであのラジオに通づるものを作りたいですね、僕のターンのためにピンポイントで作ったものとして。坂口さんのドキュメンタリーとか、またそれを動画化する時の姿勢としてそのまんまあげにゃあ、編集なんかいらんというのがあって僕はそれかっけえと思って真似して、以前ここでの日記を朗読したものをそのまんま上げていたのですが、でも僕編集も好きだしなあ、無料音源漁るのありえないほど楽しいしなあ、何より今は一緒に、それもここで別のものを作ってくれる仲間がいるから寂しくないしなあ、ということで次かはわかりませんが編集して番組にしてみたいですね。うんうん、書き過ぎた。4000字にまとめることが重要ということの理由が、次の日に体力を温存すること、その日に他のことにも体力を割けるようにすることくらいしか思いつかなくてしっくりきていないのですがいまだに、とりあえず基本は4000字付近で切り上げてみています、バイトの日とかは書き切れるかどうかの不安も軽減されるし、1日フリーダムの今日考えたんじゃ思い出せない感覚も、いまそれを続けられている理由のひとつなのかもしれません。10:05、6830字くらいだから17枚か、多。今日は楽しかったな。ほんじゃまた明日。

まるのある部屋

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