アリュザイマス!

おはようございます!いったんおはようございますから始めてみる。昨日は書く時間を取れなかったのか、余力を残せなかったのか、書けなかったのでそうかいて始めようとしたが、すると言い訳みたいなどんよりした文章として広げていくことになるのできっと、なんでこんなに気持ちのいい朝から爽やかさを奪われなきゃいけないんだ、と思いやめました。全ての中間地点、あいさつ。僕はバイトとかでよく、相手が何言っているかにほぼ関係なく、はいききましたよ、というサインみたいな用途でありがとうございます!と言ってしまう。言葉通りの意味としてはうまくつながっていないので、突っ込まれることもある、気がする。気がするというのは、いくつか指示を受けてありがとうございます!(アリュザイマス!みたいな発音だが)って返したことを思い出してみたのだが、それ自体、つまりやりとりが噛み合ってないと突っ込まれたことはないような気がしてきた。むしろ、「やべっまたありがとうございますって自動的に言っちまった!」とか「ここで相槌を打った方が気持ちがいいかな」とか考えているせいで指示の内容が音としてしか耳に入っておらず、口で反芻していたり読み返す気のないメモに殴りがいて、それでも脳にシワを刻み込む動作なのでそれをやっていればマシなのだが、多くの場合僕はそれをやらないので、全く何を言われたか覚えていない。だから多分、返事だけ立派なやつなタイミングがとても多い。なんならコツコツ積み重ねてきたそのイメージが、僕という人間はなんも話を聞いてないけど相槌は打ってくれる人間であるという位置付けを確固たるものにしているかもしれない。でも確かに飲み屋の最初の説明とか全く覚えていなくて、後から最初言ってたじゃん!となった経験は片手に収まらないから、あながち人から表面的にそう思われているだけというわけではないのかな。「イメージ(キャラクター)は周りが決めるもの」とスピードワゴンの小沢が言っていた、あちこちオードリーで。僕はなんとなくあの人がすごく好きだ。なんとなくとすごくって両立するんだ、と今思ったがそうらしい。だから、何がどうで好きという話もしないというかできないのだが、あの言葉尻が好きな気がする。「〜じゃない?」とか「〜でさ、」とか、鼻につく雰囲気の派生というか、僕はスピードワゴンの歴史を知らないのでそういう言葉遣いから「世界のオザ」が築き上げられたのか、まあこういう問いは言っちゃえば順序は問題にならないのでいいか。とにかくあの柔らかい、誘いのような、一緒に喋ろうぜこれから、という喋り方になぜか感心してしまう。あれいいなあ、と思う。あと井戸田も面白い。なんの切り抜きだったかな、相席食堂だかの切り抜きで結構不要にうるさい感じがして、またこのイメージの記憶もあのコメント欄(多くはうるさい、千鳥や演者の邪魔になっているみたいなこと)から多大な影響を受けているはずだが、まあそう僕が思っていることになっている。ほんでまあ、その勢いのまま?先週のあちこちオードリーを見たのだが、井戸田ほんまによかった。小沢と出た方がいいのかもしれない。小沢といると、あの言葉尻のエッジが「痒い所に手が届くもの」に形を変え、あのうるささと早口がなければ、一定の分量を半端じゃなく空気を含んでゆっくりハスキーにしゃべる小沢の話を聞き切ることは叶わないのかもしれない。それはバランスが取れているというよりなんだろう、小沢が面白がってもらえて、糸田で笑ってもらえる、つまり観客からの反応が元になっているから、この辺がキャラは周りが決めるという思いとつながってくるのかと思うが、そういうふうにひたすらあっちゃこっちゃ変えたり続けてみたりしてきたら、そうなったんだろう。僕はバランスが取れている、という言葉が好きではない。結果論すぎるからだ。そんなのがわかるのはそれだけ先に、それだけの時間をざっくりとって、記憶を美化して、乱暴に型にはめることで成り立つ評価なのだろう、少なくともゾッとするほどではある。今生きている、数秒先を生きていく、あるいは一年先くらいまでイメージして段取りを組むんだとしても、バランスを求めて一体何になるというんだろう、というかバランスがどうこういう言葉自体何も言っていないのと同じではないのか。この時はこうしたくて、でもこうすると相手は嫌がるから、天秤にかけて、みたいなことなのだろうか。そんな定量的な話なのか?人と人とのやりとりが。ふう、いっぱい水を飲んだらむかつきが和らいだというより、昨日きつめの靴下を履いたせいで足との境目に血が溜まったり汗が溜まったりして結構痒いので、そっちに気を取られている隙にどうでも良くなりました。こういうことなんじゃないかと思うけどなあ、判断と呼ばれているものの全ては。定量的にみているということにしているだけで。もっとやりたいことができたからこれをやるってだけじゃないのか。僕は「というより、」という文字群を打つことが多い気がするが、これは同時に二つぽぽんっと頭に生まれて、比較した末に後者を取ったという結果を示すものではない。書いてたらなんか違うな、こう書きたいな、でも書き直すのめんどくさいなでそのまま書いているだけだ。まあこんなこと言っているうちにあんまりバランスを叩き続けるのにも無理が必要になってきて今苦しいのでやめよう。全然こう書きたいな、をこう書いた方がいいなって書こうとしてそれバランスとってね?ってなったし、ポポンっをぽぽんっに書き換えたし、それはいいか別に。そんなわけで、暑いので今日はここまでとする。体が重くて書き始めるのは億劫だったけど、いったん音楽を聴いて、今日も坂口恭平のネバーエンディングツアーの録音をサウンドクラウドで聴いていたが(今日は3)、おはようございます!で始めると書けた。考え込むにしても15秒くらいで、書いている途中はやっぱりめんどくさくならなかった。にしてもふとした瞬間にちょうどいいな、坂口ソング。今朝見たTwitterで、「僕の作品には強度がなく、空気みたいなもの」みたいなことを言っていたが、まさに昨日一昨日とかに考えていたことの中に、朝晩、特に起きた直後、寝る直前にこだわり抜かれた歌は聴けないなと思っていた。疲れ切った帰り道は僕の好きなジャニーズやK-popは聴けないが、ビートルズは聴ける。でも寝る前や、書き始めるのが億劫な朝には、ディランか坂口恭平しか聞けない。ディランも聞けない時がある。村上春樹の小説は寝れなくなりがちなので、区切りが決まっている電車内で読むのにちょうどいい。あれは凝視しなくても、あるいはそのつもりがないだけかもしれないが、頭にゴンゴン情景やテクストや、時には強烈な物語性が入ってきてくれるので助かる。だから村上作品だけ読めるんだと思う。物語が強すぎると読めない気がする、新品で買った直後は読めるのだが、それはいい匂いがするからだと思う。伊坂幸太郎の逆ソクラテスも、最初の2編は夢中で、僕の中ではすごいスピードで読み進めた。でも一回途切れると、もうそのタイミングが回ってくることはなかった。というかそれが回ってくるより先に、この人に読んでほしいという気持ちが強くなって、あげてみた。それが一番僕の体にあっているのだと、最近うっすらと感じる。あーかゆ、脚。もうちょい長ソックスはだめぽですね。くるぶしソックス買い足すかあ、お金使いたくないなあ。来月分に計上できるようになったら書います。最近は計上という言葉を使いたいので、来月になったらといいませんでした。よし、ここまでにしよう今度こそ。7:45、3100ちょっと、8枚弱。着々と増えてきましたね、昨日0ですけど。まあいいってことよ、いやよくはないんですけど、忙しそうな時は前日に段取りを書いといた方がいいんでしょうな。なんにせよ、やりたいことから先にやる。これは順番の話ではなくて、優先順位、という言葉も嫌いなので使いたくないから、それは絶対やるということ、としか言えない。いや暑い。もうやめます。それではまた明日ー。

2023年7月25日 5:55起床 朝飯は肉まんとゆで卵 体重い


好きな雲

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