見出し画像

クリープハイプ『夜にしがみついて、朝で溶かして』ライナーノーツ、みたいなやつ

適当に入ったスカスカの鉄板焼き屋。一向に来ない僕の注文を二人で待つ。
かなり時間が経ったあとに運ばれてきたそれを、自分たちで焼いて細々と食べた。
店を出ると月が煌々と輝いていて、尾崎さんが「ピンポンさん、ほら月があんなに馬鹿みたいに光っていますよ」と言った。
侘しくて楽しい夜だった。
こんな夜のことがずっと心に残っている。

明けない夜には不安になるくせに、呆気なくやってくる朝には怯む。調子にのっては落ち込んで、でも調子にのれなかったことをやっぱり悔やんだりもして、日々は続いていく。
夜にじたばたしがみついて、明け方の布団の中でとろけながら、冬の朝の刺すような冷気にひっぱたかれる。
圧倒的な頻度でやってきたいつもと同じような一日のはじめに、音量をひとつ大きくして新しいアルバムを聴く。

1:料理

滲んで千切れたレシート ポケットの中に張り付いたゴミ
何を買ったんだっけ 二人の洗濯は間違ってたのか

ポケットティッシュをポケットに入れたままズボンを洗濯してしまう、という失策をずいぶん前からやらかすことがなくなった。少しは成長したのかもしれないけれど、その歩みは亀のように遅い。いまだに生活のちょっとした機微につまずく。
水を十分に拭き取らないままフライパンに油をさして、びちびち油が跳ねて熱い、みたいなことがよくある。
「いつもやってもらってばかりだから何にもしらないんだねえ」
いつまでもつまらないことで喧嘩する。行き場のない問い詰められ方をされ、ふわふわと行き着く先の無いような言い訳を続ける。
煮しめられた愛と平和の匂いに鼻がマヒしているのかも。次の朝には状況が改善していることを願って眠る。
改善しているわけがない。
それでも二人が横になった布団があたたかい。

2:ポリコ

十年以上前、吉祥寺で路上ライブをしていた。マイクスタンドを立てて、持ち運びのできるアンプから音を出す。一人が歌い、二人がこの日のために作った三人の自己紹介が書かれたチラシを配る。サンロードの入り口近く。通行人からしたら邪魔でしかない。先輩二人はもう三十代、僕はまだ二十代半ばくらいだっただろうか。
誰も立ち止まってなんかくれないけれど、チラシを撒く手だけは止まらない。
コンビニに行っていた一人が青ざめた顔をして帰ってきた。ビリビリに破かれたチラシを手に持っている。
「こんなにビリビリにされて道に捨てられていたんだよ。信じられねえよな!」
チラシが破られていたことより、細かくちぎられたそれを残さず拾い集めてまで、こちらにわざわざ報告してくるその感覚が少し怖かった。チラシをビリビリにした人間より、そこまでして、自分の怒りを、憤りを共有しようとしたこいつにひどく腹が立った。
なんでだろう。ポリコを聴いて、この出来事を思い出した。

3:二人の間

「二人の間」という歌は、「間」に関して歌いながら絶妙な「間」を持つ楽曲だと思う。
ダイアンのために書き下ろされたというのも腑に落ちる。
漫才を見ていると、素人目にも大切なのは「間」なんだろうということがわかる。ボケとツッコミ、笑い待ち、サンパチマイクとの距離感。
自分に置き換えてみると、そのことが体感としてわかる。特に弾き語りはギターとの「間」で、人と楽器の「間」というのも、なんだか自分次第であるような気もするけれど、それは自作自演であって自作自演ではないというか、本当に楽器との間には呼吸みたいなものが存在している気がする。ギターがすねる、という表現を聞いたことがある。それは湿度や弦の張り具合とか色々な状況のなかでギターの音が変わる、みたいなことなのだろうけれど、本質的には本当にギターがすねる時があると思う。そういう時は大切にするように優しく弾くしかない。
ダイアンのyoutubeチャンネルにあげられていたレコーディング動画を観た。
津田さんが何度も引っかかってできない「そのままで」のリフレインを一緒になって歌ってみる。難しい。やればやるほど迷宮入りしそうな気配がする。
ことばと歌の「間」(ニュアンスと言ってもいいかもしれない)について指示されるけれど何度やってもうまく歌う事ができないユースケさんがブースから戻るときに「戻るのめっちゃ恥ずいわ」とスタッフにこぼす所で爆笑してしまった。その言葉を発する「間」もまた芸人さんって感じがした。
クリープハイプは提供曲のセルフカバーをよくするバンドだと思う。聴き比べるのも楽しみの一つだ。

4:四季

この歌を聴くと、恥ずかしい季節の思い出が沢山頭の中をよぎる。
高校生の頃に好きだったバンドの曲。やっぱりさわやかじゃなくて、うるさくて、下手くそで、あの頃、感動していた歌詞さえいまはもう本当に恥ずかしい。それでも蘇る夏の思い出に泣けてくる。
忘れたり、忘れなかったり、ずっとひきずったり、放り投げたりしながら生きている。人生の要所要所にあった数々のポイントを全部間違った先にいまの自分がいるんじゃないかと落ち込む時がある。選ばなかった未来を思い浮かべ、もう一度生まれ直してみても、どうやってもいま会えていたはずの人の誰かには会えなくなることに気づく。
いまよりきれいだったはずの景色なんてあるはずがない。そう思えたらもう大丈夫だろうか。「どうでもいい時に限って降る雪」みたいな些細な思い出が沢山積もっていく
その集積で生きていける。

少しエロい春の思い出 くしゃみの後に浮かぶあの顔

少しエロい思い出が夏ではなく、春に来るところが一等好きだ。


5:愛す

気安さを間違えて、踏み込む速度を誤って、いつも彼女を傷つけてばかりだった。自分の未熟さを盾にするくせに、相手の未熟さには付け入って攻撃した。
ここで止まれば引き返せるなあと思いながら、右足はガンガンにアクセルを吹かしている。あとからいくら慰めてみても、説得力を失った言葉は空虚だ。
空虚であることを指摘されて、さらに空虚な言葉を吐く自分に嫌気がさすけれど、他に何の言葉も出てこない自分にもっと嫌気がさした。

急ぎなほら遅れるよ やがてドアが閉まるバス

時間通りにバスは出るし、一度閉まったドアは都合よく開いたりはしない。
いくら髪の毛を振り乱して走ったって愛しい人はもうそこにはいない。
肩にかけたカバンのねじれた部分を元に戻すことさえ、もうできない。

6:しょうもな

この曲の「だから言葉とは遊びだって言ってるじゃん」という歌詞が好きだ。
たかが言葉じゃんっていつも思いながら、されど言葉は、にいつも惑わされたりするから。
「詞が絶対に先ですね。まず歌詞ができて、そのあとメロディっつう感じですね」
よく聞かれる質問にいつもこう答えていたけれど、実は結構、曲を先に作っていることに最近気づいた。で、何が悪いのかと思ったら、何にも悪くない。別に言葉をないがしろにしているわけじゃないし。別段、特別扱いもしていない。
音が飛んでいく。
リズムが跳ねる。
感情が言葉を追い越していく。
会いたくて震える前に、何度も何度も君の名前を呼ぶ前に、感情を飛ばせ。
その中で言葉はまた感情を追い越していくかもしれない。

7:一生に一度愛しているよ

「初期衝動って言うのか、一枚目が一番気合入っているに決まっているし、勢いもあるじゃん。五枚目から急にレゲエの要素いれちゃったりして迷走してるみたいだし、ルーティーンでこなす感じももう違うし」
こちらは常に進化しているはずなのに、良いって言われるのは昔の曲ばかりだ。
昔のCDを聴くのは恥ずかしいのに、昔みたいに出来たらって思ったりもする。
なんで昔のような感じで歌えないのだろう。昔みたいな曲が書けないのだろう。
でも本当はそんな曲をいま書く必要がないってことも分かっているし、いまの自分も全然悪くない。きっとある程度の層には届いてしまうだろう。
何をしても人は離れていくし、新しい人はやって来る。
コウキって何かいま売れているバンドとかのボーカルの名前なのかなとか、色々と邪推して、ググった。思わずああっと言ってしまった。鈍いから気づかなかった。本当にこういう言葉遊びが面白い。

8:ニガツノナミダ

やけに締め切りまでが短い。
誰かのバーターなのだろうか。
候補曲を何曲も何曲も作って送る。
「違います」
「これのこれっぽく、お願いします」
「そうそう。そんな感じ」
「いや、違うな。やっぱり最初のやつで」

「しばられるな」にしばられてる

ガチガチの制約の中で、だだっ広い野原を走り回る姿を想像してみるけれど、それはそれで「で、どんな感じに走りましょうか?」とか聞いてしまうかもしれない。
逆にだだっ広い野原を走りながら、自分に自分で枷をはめて躍動する姿もまた想像できる。
突き付けられた鋭い矛先を、集中する有象無象の好奇と期待と憎悪の視線をかいくぐり、いなし、いつだって越えながら歌を作り続ける歌手の矜持を感じる。居直ることでよくなる姿勢。

締切に抱きしめられて 制約にくるまって眠る
それはそれで悪くないから ここはここ

9:ナイトオンザプラネット

映画「ナイトオンザプラネット」は深夜に観るのにお誂え向きだし、昼間に観ると、その場所を一瞬で深夜にしてしまう。
この歌もまさにそんな曲で、この文章を書いているいまは真っ昼間だけれど、僕はまるで深夜のさらに深い時間にいるみたいな気持ちになっている。
尾崎世界観と僕は同い年で、おそらくこの映画もタイムリーに観たわけではない。(ジャームッシュ特集上映のパンフレットの彼の文章には近所のTSUTAYAで借りて観たと書かれていた)。それでも同じような時期に僕もまたこの映画を観たのは間違いがない。同じ時期に別々の場所に同じような孤独な夜がふたつ。
映画が始まる。最初のウィノナ・ライダーにときめいて、次のニューヨークの黒人と移民のドライバーのやりとりに笑い、ドライバーのおじさんの行く末を心配する。パリの盲目の女性と黒人ドライバーの話が一番好きだ。イタリアのロベルト・ベニーニの話は早送りするのが常で、一度もちゃんと観たことがない。最後のマッティ・ペロンパーのタクシーの話が終わるころに夜が明ける。
沢山の時間が流れて、もう会えなくなった人も増えた。

巻き戻せば恥ずかしいことばかりで早送りしたくなる。

恥ずかしくって聴けなくなった音楽、急にしっくりこなくなった映画、色々思い出している間にみんなどんどん年を取っていく。何も見ないふりをして、夜にしがみついて、音楽にしがみついて、今日も夜が明ける。

10:しらす

長谷川カオナシの楽曲は民話的というか土着的で少しだけ諸星大二郎の漫画の世界みたいだなといつも思う。
この曲はイントロが独特で、そこから夜空みたいなイメージがばあっと広がっていく。いつも以上に童謡的で、ふらふらとした不穏さがずっと曲全体をもたげている。
それゆえ最後の「進めよ 進め」からのメロディの美しさが際立って、寂しさや、もっといえば死のイメージみたいなものさえ想起させる。

しらすのお目目は天の川 

ジョバンニとカンパネルラを乗せた銀河鉄道の汽笛が聞こえてきそうだ。

11:なんか出てきちゃってる

何が出てきちゃっているんだろうって思いながら、最初はやっぱり白っぽいアレが出てきちゃっているというイメージが湧いてきたのだけれど、曲を繰り返し聞くたびに耳からとろーっとなんだかわからないハチミツみたいなやつが垂れてくるようなイメージも湧いてきた。もっとグロいものだったり、ファンシイなものを想像する人もいるだろう。観念の液体? みたいなものだろうか。考えれば考えるほど分からなくなるので、ぼーっと聴いている。
そしたら

せーので同時に出さない? せーの!って言ったらだよ

の時点でねじを外しちゃってどぼどぼと何かの液体を垂れ流してしまっている自分を想像して少し笑う。
絶対に騙される自信がある。
二人で誰かの悪口を言っていて、どちらかと言えば相手が主導していたのに、いつのまにか僕の方がエスカレートしているみたいな、そんな感じ。
見えない液体をドボドボたらして、いい気になって笑う。
あくまでも偶然ねじが緩んだことにして。

12:キケンナアソビ

尾崎世界観の真骨頂って感じだなと思う。男女の駆け引き、思考の機微を丁寧に追ったクリープハイプらしい曲。
ピーっていう自主規制まで出てきて、その十八禁感もアダルト感も最高潮で、もはや僕の手には負えない。
良い子でもないくせにこのぼんくらは夕焼けのチャイムを合図にそそくさと家に帰ります。

夢みたい 夢みたい 夢みたいな話 

のリフレインになぜか少し泣きそうになりながら。

夕焼け小焼けで真っ赤に燃えて

13:モノマネ

傍から見ればちっとも面白くもなんともない自分たちだけに通じるノリ。シャンプーで固めて作った変な髪形。不摂生で出てきた腹を叩く。笑って笑って笑いあう。

起きたらすぐにテレビをつけて、録画しておいた番組を観る。彼女は違うことをしているのに、リアクションを取っているかどうかを確認するためにチラチラ後ろを見る姿が彼女にはうっとうしい。渋々、彼女が笑いに反応してやると「あ、観てなかったの」って巻き戻してまで観せようとするけれど、本当は全然興味がない。それなのにもっと気を遣って彼女が「いま、この芸人さん、何って言ったの?」って聞き返すと、ムスっとして、「その場の空気とスピード感が」ってお前は芸人かよ。

あのときはって言われても、笑っていたんだから笑っていたのだとしか思っていなかった。一緒に見ている風景はいつも一緒に同じように見えているものだと信じていた。彼が面白いと思うことは全部彼女も面白いのだと信じていた。

いい気になって気づかなかったことの空虚さを歌うこの曲の切なさに胸が苦しくなる。
どこかの誰かのどこにでもある毎日が いまもどこかで続いていてくれと切に願う。

14:幽霊失格

抱きしめたとき 触れなくても ちゃんと伝わるそんな霊感

この曲を聴いた時、藤子・F・不二雄の「山寺グラフィティ」という漫画を思い出した。ふいに死んだはずの幼馴染が主人公の東京の下宿を訪ねてくる。主人公の地元では、早くに亡くなった人間の代わりにこけしを作り、生きていたならば歩んでいたであろう人生に合わせて、こけしの面倒を見ていくという風習があって、現れた幼馴染はそのこけしの幽霊みたいなものなのだった。その姿はもちろん主人公にしか見えない。
平穏な日々がしばらく続くけれど、幼馴染はやがて主人公に模したこけしと結婚して主人公の元から去っていく。
「幽霊失格」の主人公の前に現れる幽霊を僕はこの幼馴染と重ねて聴いている。
思い出のよすがになるどころか、生前と同じように恋人の前に現れる幽霊、なんと愛らしいのか。

分けて 悲しいことも 苦しいことも
怖いどころか嬉しいんだよ 
成仏して消えるくらいなら いつまでも恨んでて
なんて言わせる 君は幽霊失格

こういった物語は別れが絶対条件のように描かれることが多いけれど、そんな設定は無視してあわよくば、いつまでもいつまでもこの世にいてほしいと思う。そんなふうに言わせる彼女が幽霊失格なら、そんなふうに言ってしまう主人公はさしずめ人間失格ってところだろうか。

15:こんなに悲しいのに腹が鳴る

悲しくて、悲しくて、気持ちはどんどん沈殿していくのに腹が鳴る。そんな自分が許せなくて自分で自分の腹を殴ったら、腸の活動がもっと活発になってしまって、もっと腹が鳴ってしまう。情けない音を立て続ける。
殴るにしても、極力痛くないように無意識に手加減しているさまが本当に情けない。
悲しみさえ悲しめない自分は生きる資格がないのだろうか。
どんなにかっこつけたって、どんなに眉間にしわを寄せて難しい顔をしたって、情けなさと共に人は生きていくしかないのだろうか。

食べたい食べたい何か食べたい
どんなに苦しくても腹が減る

涙を流しながら、レンジの時間を測る。嗚咽しながら野菜を刻む。ぼやけた視界の中でフライパンをひっくり返す。
生きたくて生きたくてしょうがないから、この情けなさと一緒に生きていく。

※最後に

人の業を肯定するこのバンドにこれまで何度も助けられた。侘しい夜も、楽しい夜も、イヤフォンをして自然とクリープハイプの曲を選んだ。昨年からよく戴くようになった文章の仕事をする時もクリープハイプの音楽を聴きながら、という事が多かった。普通、邦楽だと日本語の歌詞が邪魔をして集中できないことがあるのだけれど、クリープハイプの音楽は言葉が並走してくれた。朝も昼も夜も並走してくれた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?