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品品喫茶譚 第86回『またいつものカフェバー』

タイヤの空気が少し甘い気がするが、気にしないふりをして自転車をガレージから出した。日が伸びたとはいえ、十八時半ともなると街はすっかり暗闇に包まれている。少し先の横断歩道まで行く手間を横着する癖がずっと抜けない。車のヘッドライトの途切れた隙をついて、アパート前の通りを向こう側に渡る。思いきってペダルを踏み込むと、後輪がベコベコと情けなくアスファルトをこする音がした。いまなら自転車をガレージに戻して、徒歩で向かうという手段もあるかもしれないという考えが一瞬頭をよぎった。しかし折角渡り終わった通りをもう一度、という手間を思うと、このまま向かったほうがいいとすぐに考え直した。何より待ち合わせの時間までもうあまり余裕がない。ちまちま夜道を歩いていてはきっと間に合わないだろう。ギアを2にして、シュコシュコとペダルを踏む。パンクした車輪の負荷のため、実質ギア3くらいの体感だった。

目的のレストランまでは自転車で十分ほどの距離だったが、十五分かかった。わずか五分ほどの話かもしれないが、私にとっては結構な苦労だった。おまけにレストランは予約で満席だった。
結局、色々考えた挙句、いつものカフェバーに落ち着くことになった。平日ということもあって、店は空いていた。テーブル席に座り、ビールを注文する。細長いグラスになみなみと注がれてきたそれの泡の部分だけを舐めとるようにして口に入れると、ようやくひと心地着いた。
カウンターでは常連とおぼしき男女が会話を楽しんでいる。
「ネットフリックスのウィーアーザーワールドのドキュメンタリー、昨日ようやく観ましたよ。めちゃくちゃよかったです!」
「でしょ? 最高だよねえ。あれ」
私もそのドキュメンタリーを数日前に観た。
「すごいスターが沢山出ているじゃないですか。でも特にボブ・ディランが面白かったです。なんか全然歌えなくてスティービー・ワンダーに教えてもらっているところとか!」
「そうそう。あれさ、周りはとにかくめちゃくちゃ歌がうまいわけ。でも、ディランってそうじゃないじゃん? ヘタウマっていうかさ。不器用なんだよね彼」
確かにディランの魅力はうまさではないかもしれない。
「わかります」
女性は何度も首を縦に振る。
気持ちよくなったのか、男の身振りが激しくなってきた。
「ディランが歌うときだけ、ほかの歌手、外に出したりしてさ。まあ、それだけ彼がスペシャルってことなのかもしれないけど。良い意味でも悪い意味でも、彼浮いているよね」
あの場面を観て、私はもっとディランが好きになった。
「ですよねえ。皆のいる前じゃ歌えないんだって、めちゃめちゃ受けました」
さらっと歌って、一発オーケー。それがスターかもしれないが、ディランの戸惑い、不器用さ、良い意味でも悪い意味でも場に馴染めない佇まいに、勝手に親近感を覚える。
一息ついて、男が続ける。
「あんなスターなのにねえ」
何を歌っても、どう歌ってもディランの歌になる。孤高みたいな顔をして、結構緊張していたのか、器用にこなせないディランが大好きだ。
「ですです!」
女性がまた強く首を縦に振った。
「しんどかったと思うよ。俺にはわかる」
男が急にディラン側に立った。
「本当それです」
女性が眉間に深くしわを寄せてみせる。
「ちょっとタバコ吸ってくるね」
男がダウンを羽織って外に出ていく。
一人になった女性がすかさずスマホを取り出すのが見えた。

店ではジャズのレコードが大きく鳴っている。
全然知らない歌手だったが、いい曲だと思った。私のグラスにはまだ半分以上、ビールが残っている。
男女の横で静かにひとり飲んでいた女性が会計を済ませて、店を出た。テーブル席の横には通りに面した大きな窓がある。そこからさっきの女性が路地の方からやってきた男性と道の真ん中で抱き合う姿が見えた。
ダウンを羽織った男性はずっとタバコをふかしている。その横には後輪がパンクした私の間抜けな自転車が停めてある。薄暗いカウンター席で、女性の顔だけがスマホの光に照らされて、青白く光っている。

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