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品品喫茶譚 第78回『横浜 関内 あづま 三番館』

ようやく注文を聞きに来て下さった女性はまだ仕事を始めて日が浅いのだろう、厨房からばあさんが、横のテーブルからはじいさんが、指示や助言を出す。側から見ていると、少し小うるさいなと思ったが、女性は真面目に働いている。

「そんなに丁寧に拭かなくていいよ」

じいさんが言う。
あまり拭かないのもどうかと思うが、これはそういうことではなく、仕事初日(かどうかは分からないが、とにかく日が浅い)、どうしても緊張し肩に力が入っている女性に対する優しさであろう。
少し前に注文を取りに来て下さった女性が再度、私のところへ来る。

「ご注文はホットでした?」

アイスコーヒーを注文しました。

やがて、常連のじいさんが入ってきた。井伏鱒二に顔が似ている。
前にもこんなことがあった気がするが、気のせいだろうか。
井伏が口を開く。
彼の目は厨房の女性二人に向いている。

「とんかつはヒレかい? それともロースかい?」

「うーん。ヒレかな」

ばあさんが答える。

「脂っこいねえ」

と鱒二。

「あはははははは」

このやり取りの中身はさておいて、私はこれは暗示だと思った。
昼飯はとんかつにするべし。
ではなく、ちょうど近くにある神奈川近代文学館で催されている井伏鱒二展に行くということである。実際、私はこの二日後、かの文学館を訪れた。何と偶然にもその日は何かしらのラッキーデイにあたっており、入館無料の上にくじで夏目漱石一筆箋までいただくという、まさに訪れるならこの日しかないじゃん、行っちゃいな、ちゃいなちゃいなはチャイナタウン、ふふん、ふふん。という訳なのであった。

喫茶店「あづま」を出た私はさらに近くのもう一軒「三番館」に寄る。
細い階段を登って二階にある店だ。
店内にはマスターとおっさん。
ずっと車の話をしている。

「50年、いや60年コースか!いまは東京じゃアストンマーチンだよ。かっこいいもんな!」

マスターの目がキラキラしている。
こういう心をいつまでも持っていたいものだ。
と、憩っていると、おっさんのほうが少しきな臭い話をし出した。もちろん真偽は分からない適当な与太であろう。意味のない無駄な会話の積み重ねる。これが喫茶店だ。
私の座る席、連なったテーブルの使っていないほうには空気清浄機が置かれている。もちろん稼働しているのでテーブルにもたれながら珈琲を決めていると、わずかに振動する。しかしここがきっと一番空気がきれいであろう。
おっさんとマスターはまだ車の話をしている。あとは金持ちの話ばかりだ。自分が金を沢山持っていたら車などに使わず、本やギターを買うことになるだろうか、結局こうやって喫茶店に好きなだけ通うか、外国も行きたいし、服も欲しい。服を購うということは靴も買いたい。と、そんな感じで考えていると、欲しいものは無数にある。欲深い人間しかいない。しかしそれこそ生活である。
振動とともにアイスコーヒーを飲み干して、店を出る。
横浜の喫茶店、もう少し周る。

続く。

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