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『尾道滞在記⑥』

九時ごろ起床。昨日の昼間に見かけた尾道PCRセンターがずっと気になっていて、夜分遅くにネットで検査の予約をする。尾道に来てはや六日、弐拾dBの藤井君と藤井君の妹のむつこさんを中心に尾道に住む色々な方々の中に混ぜてもらい、楽しく過ごさせてもらった。これから帰る身として、尾道に滞在させていただいた身として、どうしても検査を受けておきたいと思った。よしんば陽性だったとしたらことである。彼らにも多大な迷惑をかけてしまう。飛ぶ鳥跡を濁さずは適切ではないかもしれないけれど、いずれにしてもはっきりさせておきたかった。
午前中、メールの返信など雑務を済ませ、十二時四十五分の予約に間に合うように宿を出た。海沿いの市役所駐車場に設置されたPCRセンターにはすでに沢山の人が並んでいた。並んでいる間に、住所や名前、いまの状況などを記入していく。せいぜい二十分位だったろうか、自分の番が来た。試験管? を渡され、誰とも向かい合わないように細かく区切られたスペースにひとり座る。自分が去年受けた京都のクリニックでのPCR検査では、確か試験管に直接唾液を注入(というのだろうか)した気がしたけれど、今回は太めのストローを使って唾液を中に注入するタイプになっていた。それにしてもなかなかうまく出ない。前の壁に貼られた紙には「酸っぱいものを想像すると唾液が出やすくなりますよ」と、知ってはいたけど試してはいなかったことが書かれている。平凡だなあと思いながらも梅干を連想し、唾液を少しずつ注入していく。途中でここは尾道だし、レモンの方だっただろうか、などと至極どうでもいい余裕が出てきたころ、最初の受付で言われた位置までどうやら溜まったようなので、提出しようと席を立った。提出先のおばさんがジップロックみたいな袋を持って待っている。そこに試験管を入れようとすると待ったがかかった。

「全然足りないので、もう少し頑張ってください」

どうやら目盛り2ではなく、3まで必要らしかった。話をちゃんと聞かないで分かった気になる自分の悪い癖がでた。もう一度、先ほどの場所に戻って励む。全然唾液が出ないことに焦ってストローを試験管の中に落とす、近くのスタッフさんに言ってストローをもう一個いただくみたいな茶番を演じつつ、なんとか提出した。陰性であればスマホにメッセージ、陽性であれば、電話がかかってくるらしい。毎朝の検温ではいつも平熱だし、もちろん体調が悪いところはひとつもない。それでもやはり緊張する。
念には念を入れて朝から何も食べないで行ったために、ひどくお腹が空いている。会場ではスタッフの方から「三十分前から何も食べていませんか?」と聞かれた。三十分前までなら食べてよかったのか。だから話をちゃんと聞けよ。

検査も受けたことだし、うろうろしないで午後は宿でじっと作業をしていようと思った。今日の夜には、テレビブロスの連載『感傷は僕の背骨』の最新回が更新される予定でもある。宿への帰り道によく使うコンビニ横の細道を通って商店街に出る。信号を渡って、おまけに線路も渡ったらお馴染みの石段である。それにしても結構上り下りしているのにちっとも楽にならない。このまま体力がつかないまま帰ることになるのだろうか。とにかく早く宿に帰ってご飯が食べたい。「まず食べなさい。それからが男の戦いよ」とメーテルが言う。
『プカプカ 西岡恭蔵伝』を読んでいることもあって、ザ・ディランⅡの『きのうの思い出に別れをつげるんだもの』を聴きながら歩く。元々好きなアルバムだったけれど(タイトルも最高)、今日は特に『その時』という曲に気持ちを持っていかれた。うまくもなんともないサビでのハモリが妙に泣ける。でもこれは西岡恭蔵ではなくて大塚まさじの曲なんだな。良い歌だな。

宿に戻り、こういったときの悪い癖でお菓子などをドカ食いしてしまう。こたつの温さと気候の良さですぐに眠くなる。そして昼寝。ここに来てから何度も思った。なんて贅沢な昼寝なんだろう。換気のために開け放った窓から、観光客だろうか、若者たちの笑い騒ぐ声が聞こえる。楽しそうでいいなあ。ああやって何にも考えないではしゃげる人は良いなあと決めつける。眠たさもあってどうしても思考は濁っている。ベタを嘲笑する自分は何様なのか。平凡を愛しているような顔をして、人の平凡にはケチをつける。月並みを笑う月並みをこそ笑え。寝ぼけ眼に月が一段と光っておる。どこにいるのかわからないが、今日も犬が「わおーん」と鳴いた。

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