四十九日が済んでも麦野はいまだにやってくる。三日連続のときもあれば、一週間ぱったりと姿を見せないこともある。十日あいたことはない。帰宅する際、カーテンの隙間から光が漏れていると、ああ、またきているんだなと思う。彼女はたいてい床に座りこんで窓から外を眺めている。たまに壁にもたれかかったりも、する。生前から行儀がよかったので、床に寝そべったり勝手にベッドを使ったりはしない。すくなくとも私がいる間は。
 麦野はしゃべれないみたいだったが、話しかければうなずいたり笑い返してくれる。やわらかく発光していなかったら、亡くなったなんて信じられないくらいだ。彼女はいつだって深緑のワンピースを着ている。寒くないの。私が訊くと、麦野は首を横にふって困ったように笑った。麦野がきた夜は映画を流すことにしている。そのときばかりは身体の向きを変え、画面をじっと見つめた。発光していても黒目のなかで小さな光が揺れているのがわかった。彼女はよく笑ったが決して泣かなかった。
 映画も終わり夜が更けてくると彼女はおもむろに立ち上がって、ほたほた玄関へ歩いてゆく。私はおつかれ、と声をかけるだけで、あとを追ったりはしない。彼女はもう扉を開けたり閉めたりする必要がないみたいで、金属の擦れる音を立てなくても出てゆける。うちへくるようになったばかりの頃、壁に寄りかったり扉をすり抜けたり、どうやって使い分けているのか尋ねたことがあった。なんなら見せてほしいともいった。麦野はめずらしくいやそうな表情を浮かべた。や、無神経だった、ごめん。麦野はうなずいて応えた。なので実際にすり抜けるところを私は見たことがない。でも彼女が出てゆくとすぐわかる。部屋でも廊下でもすこしだけ暗くなるのだ。発光しているからすぐわかる。

 友人たちにもそれとなく訊いてみたものの、麦野がくるのは私のところだけだった。現れるなら菅原くん、せめて春さんのところが道理だろうに。他だってたくさんいるはずだ。それこそ菅原くんなんか、ひとめでいいから千夏に会いたいと葬儀のときも泣き続けていたのに。麦野とは共通の友人を介したなんらかの会で顔を合わせたら映画の話をする程度で、毎回それなりに盛り上がるのだが、ふたりで飲みにいったことはなかった。けれど、事故の直前、あの酒席のなかでアンダー・ザ・シルバーレイクを観ていたのは私だけで、だから最期に話したのも私だった。
 きたからには理由があるはず。そう考えていろいろ試してみたが、どれもむだだった。秘められたメッセージも探してみたし、あの日話題に挙がった映画も一緒に観た。それでも麦野はきたり、こなかったりした。どうして私のとこなの。尋ねてみても麦野あいまいに笑って窓の外に視線を戻した。部屋からは細長く横たわった川が見える。

「あのさあ、ついていっていい?」
 映画が終わり、麦野が立ち上がったタイミングで私はいった。彼女は驚いた顔でこちらを見下ろす。まっすぐに彼女の瞳をみつめていたら、目を伏せてちいさくうなずいた。私はコートをはおりマフラーをぐるぐる巻いて、廊下が薄暗くなるのをじっと待った。さすがにふたつもお願いするのは気が引けたのだ。
 丑三つ時だったが麦野のおかげで歩きやすかった。街灯のない場所であっても、彼女の青白い光があたりをやわらかく照らした。私たちは運河べりをゆっくり歩いた。その途中で何人もすれ違ったけれど、発光している麦野には、誰も気がつかなかった。本当に見えないんだねえ。何人めかのとき、つい口から出てしまって、とっさに麦野を見ると彼女は肩をすくめてみせた。
 手を握ってみたらどうなるんだろう。とつぜん浮かんできてポケットにつっこんだ手を引き抜こうするけれど、本当にさわれてしまったらいよいよ境目がわからなくなるし、本当にさわれなかったらものすごく悲しい。それに不埒な気がする。私はポケットのうちで握りこぶしをつくり、気持ちが通りすぎるのを待った。
 麦野は欄干のまんなかで立ち止まった。橋の向こうに橋があり、さらに奥には橋があった。河口に向って橋の輪郭がぼやけ、その下を川が黒く粘りながら続いていた。麦野は欄干に身体をあずけて河口をじっとみつめていた。ふたたび歩きはじめる気配はなかった。ここが目的地なのかもしれない。私も真似をしてみる。しずかだった。
 そのうち朝が近づいてくると、橋のずっとずっと向こう、ほんのすこしの隙間だけ海が浮かんでくる。厚ぼったい海面が徐々に白んで、うっすらと一本の光の筋が伸びる。美しかった。麦野はこちらを見てほほ笑み、応えるように私も笑った。そうしてまばたきをした間に麦野はきれいさっぱり消えてしまって、え、と間抜けな声をあげてしまう。あっけなかったが、終わりなんてたいていそんなものなのかもしれないと自分にいい聞かせ、やってきた道をひとりで帰った。それなのに、麦野は翌日もやってくる。気のせいかもしれないけれど、どこか得意げにさえ見える。ならば今度こそ、すり抜ける瞬間を見せてもらおうと思う。



オカワダアキナ主宰
『掌編小説とエッセイのアンソロジー BALM 赤盤』収録

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?