巡礼

 石階段から砂浜へ降りてゆく途中、流木やら漂着物やら海草やら打ち上げられているのが見えた。覚悟はしていたが、やはり昨夜のうちに抜けた台風が連れてきたのだろう。清掃ボランティアの人たちの姿はなかった。この湾はいつもあとまわしだ。岬の突端にあり、観光客どころかサーファーもこないから、たまに次の台風まで放っておかれることさえある。台風じたいはちっともめずらしくないけれど、私が役目を継いでからはじめてのことだったので、はたしてうまくできるか不安だった。目印にしていた大きな岩はまったく違う位置にあったし、砂の勾配も昨日とは明らかに変化していた。潮の満ち引きや海風ですこしずつ変わってるんだって。兄のかすれた声を思い出す。
 降りきったところで石階段にぴったりかかとをつけて、深呼吸をくり返す。この瞬間だけはまだ慣れなかった。日差しはするどく、目に映るあらゆるものが白く光りかがやいて見えた。私は兄を想像する。背が高くて、うつむきがちで、どこまでも優しかった姿だ。やがて想像上の兄は波打ち際へ足をふみ出すので、重なるように私も歩いた。一、二、三……決して間違えないようひとつずつ数字を積み上げながら、ひたすらまっすぐ歩いてゆく。その一歩は大きい。油断していたら歩幅が違ってしまう。

 クジラが座礁したニュースはもちろん町で話題になったが、私たち家族にとっては、発見者が兄だということの方がよっぽど重要だった。あの頃の兄は私が学校にいくときも部屋にいて、帰ってきてからも部屋にいて、たまに、みんなが眠ったあとで部屋を出て、起きだす前に戻ってくる、そういう暮らしを送っていたからだ。いまだにその理由は知らない。両親に尋ねてみても「お兄ちゃんもたいへんな時期だからね」と言葉を濁されるばかりで、核心めいたことは決して口にしなかった。それでも、生命工学だか生命科学だか、とにかく、大学生活がうまくいかなかったのは私にもわかった。
 一度だけ兄のあとをつけたことがある。月の明るい夜だった。兄は海岸沿いをゆっくり歩いた。コンビニを越えてバス停を通りすぎ、湾につくところで防波堤に座りこんで、ずっと海に向かっていた。それ以上近づいたら気づかれてしまいそうだったから、海を眺めていたのか、目をつむっていたのかはわからない。もしかしたら泣いていたのかもしれない。
 その日の兄を思い描こうとしても、なかなかうまくいかなかった。いつものように深夜の散歩にでかけ、兄は打ち上げられた哀れなクジラを見つける。はじめはクジラだと気づかない。そこだけぽっかり夜が濃くなっているようで、そばに寄ってみると、それが横たわったクジラだとわかって驚く。大学か、書物か、どこかで身につけた知識でもって兄は水族館に連絡をいれる。運よく電話はつながるが、真夜中の通報だったので夜勤の職員からはいたずらを疑われる。それでも食い下がる兄に職員は根負けし、日の出を待って湾へ足を運んでみたら本当にクジラが座礁している……そういうふうに順ぐりに考えてもだめだった。後日になって水族館の職員さんから「この度は春日様のご連絡により、漂着したイチョウハクジラが粗大ごみとして処理されず、このように埋設することができました。誠にありがとうございました。」という手紙が届かなければ、まだ信じていなかったかもしれない。手紙は兄の部屋の、目立つところに飾られている。
 あれから毎日、兄は砂浜へでかけた。それも陽の出ている間に。ご飯も一緒に食べるようになり、家には以前の明るさが戻ったようだった。私が訊くと、兄はクジラが解剖された日のことを教えてくれた。腐敗臭も内臓の巨大さも作業にきたクレーンの駆動音も、たいして興味はなかったけれど、兄が熱心にしゃべっているさまを見るのは好きだった。ふた夏くらいかかるんだって。それが兄の口癖だった。掘り起こすときには連絡をもらう手筈になっているらしい。だからそのときまで、兄は歩みを数え続けた。「GPSとか一緒に埋めてないの?」つい私が口にしてしまうと、そうなんだけどさ、と目を伏せて笑った。潮の満ち引きや海風ですこしずつ変わってるんだって。そうやって、クジラ漂着のニュースが地元ですら過去になり、足元に眠っていることさえ誰もが忘れ去っても、兄だけはひとりぽっちで亡くなったクジラに祈りを捧げていた。

 二三五、二三六、二三七、台風が過ぎ去ったあとの海はいつもと変わらない。水色の薄紙を敷きのべたようにどこまでも広がっている。こんなことをしてなんになるんだろうか、ときどき考える。兄の歩幅だって私の想像でしかないから、もしかしたらまったく見当違いのところを歩いているのかもしれない。二四〇、二四一、二四二、石階段を降りたところから波打ち際へ二四三歩。そこより南へ、今度は八八歩。どちらも兄が教えてくれた数字だ。その真下に頭骨が埋まっている。亡くなった兄の日課を引き継いで、もうじき一年になる。



オカワダアキナ主宰
『掌編小説とエッセイのアンソロジー BALM 赤盤』収録

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