留年しかけている話

「課題を出さないと留年だよ」
と教授に言われた。これは流石の私をおいても初めての事だった。
英語の授業で出ていた課題は9つで、私は3つしか提出していなかった、1週間後までに残り6つを提出しないと単位が出ずに私は留年するとの事だった。
英語の先生はとても親切な人だったし、教授もとても親切だった。流石に必修の英語1つで1年を棒に振るのは…と思ったらしい教授は、英語の先生と相談して私に最後のチャンスを与えたらしかった。私は流石にしょんぼりした。私は優しい教授が大好きだった。そんな教授に大変な迷惑をかけてしまった事が申し訳なくて仕方なかった。
「他の科目は大丈夫だよね?」
と教授は心配そうに尋ねた。
「わからないです」
と私は答えた。学年末に提出しなければならないレポートを私はまだ出していなかった。成績付与はもう終わっているとの事だった。
「あ、終わったな」
と思った。

万が一留年するなんて事になったら母親に殺されると思う。母親はとある私立のFラン大学(というのは昔の話で今は結構評価が上がってきているらしい)の経済学部か何処かをとても優秀な成績で卒業した。確か優と良しか取っていなかったと話していた記憶がある。母親は自分に厳しくて、真面目で努力家だ。凄く良いと思う。大谷さん然り藤井聡太くん然り優秀な人は自分に厳しい人が多い気がする。ただ、私の母親は他人にも結構厳しいのだ。自分に甘くて他人に厳しいより全然マシだけれども、そんな母親と生活するのは息苦しかった。昔は母親を毒親と恨んだ事もあるし、心の中で何度
「さっさと死ねば良いのに」
と呪ったかわからない。今は口煩いところもあるけれど面倒見の良い人だと思うけれど、それでもやはり息苦しいとは思ってしまう。私は自分の正しさを押し付ける傾向にある母親が苦手だった。彼女の言い分が正しいからこそ私は彼女を疎ましく思った。彼女は何も悪くないのにも関わらず、である。母親の認識が間違っていた時など訂正しようと試みた事があるけれど、あまり聞いて貰えた試しがないので、いつからか叱られている間は黙ってやり過ごす様になった。

万が一留年したら半年休学しようと思う。学費が節約できるかもしれないし、院試の勉強をした方が良いと思うからだ。ずっと発達障害な気がしているので精神科にも行った方が良いし、教習所やバイトも入れられていない。場合によっては世界を見て回るのもありだ。
…なんて。

加藤シゲアキがパーソナリティを務めているFMヨコハマのラジオ番組「SORASHIGE BOOK」を聞いていたら、彼が
「まあ留年したって死なないから」
と言った。確かに死なないよな、と思って元気が出た。

ある日、不本意ながらあさイチを見ていたらウクライナ人のディレクターがウクライナに里帰りした時の話をやっていた。
そうしたらディレクターの子供が笑顔で
「将来は戦闘機のパイロットになるか戦車に乗る」
と言っていた。ウクライナの人達は空襲警報で日常を止められる事にイライラしていた。一見平和に見える街にも戦争が溶け込んでいた。そこにあるのは紛れもない「戦争のある日常」だった。
それを見たら何もかもがしんどくなって私はボロボロと泣いてしまった。
そして泣きながら「SORASHIGE BOOK」にメールを書いた。

「文化を大事にする事は戦争に立ち向かう1つの方法」という話を彼は別のラジオで言っていたけれど、いざ世界の現状に目を向けてみると、そんな事は全部詭弁に思えた。そんな世界の現状について報道しているのが、旧ジャニーズ事務所に所属しているタレントを徹底的に排除しているNHKしかないという事も絶望に拍車をかけた。

一生懸命頑張っても報われないな、と思う。
私の父は一生懸命勤労しているけれど、彼の勤めている会社は倒産寸前で、私の母は認知症の祖母を一生懸命介護しているけれど、祖母は幼少期を過ごした長野の村の事しか覚えてなくて、その頃の話の独り言ばかりを繰り返す。祖母は母に「ご飯がまずい、臭い」「ご飯を食べたくない」「寒い」「水が飲みたい」「アイスクリームが食べたい」と文句ばかりを繰り出す。挙句「村に帰る」「もう死んでやる」と母を脅す。祖母は父をはじめとした男性にばかり媚びる。祖母は私と母の事を心底憎らしそうな目で睨みつける。碌に歩けない祖母は母の腕に全体重をかけながら歩く。母は遂に肩の筋肉を損傷し、テーピングなしでは生活できない様になってしまった。祖母は大して出るものもないのに夜中に10回以上トイレに起きる。神経質な母はその度に起こされ、碌に眠れない。父は会社の先行きが不安で眠れない。母親はイライラしている。両親は、とても疲弊している。
どんなにシゲさんが頑張って「なれのはて」を書いたって直木賞は獲れなかったし、「どうせアイドル」って言われるし、彼がMCを務めていた「タイプライターズ~物書きの世界~」は打ち切りの様な形で終了となった。
気づいたら旧ジャニーズ事務所所属タレントから仕事が剥がされて、かと思ったら以前は所属していて今は退所しているタレントに大量に仕事が回されている。かの人が生きていた時代には同じ釜の飯を食っていた筈なのに何故ここまで扱いが違うのか。分かり易い乗り換えでイライラしてしまう。
この世界は理不尽に満ちていて、今日も何処かで誰かが理不尽という歯車に押し潰されているし、場合によっては理不尽という擂鉢と擂り粉木で粉になるまで擂り潰されて死んでいる。骨すら残りはしない。こんな世界ならさっさと死んだ方がマシだと思う。でも死んだら死んだでそれなりの迷惑がかかる。私なんて生きていようが死んでいようが迷惑な存在だ。だから
「死ぬまでこの地獄でダンスしてやるよ」
とも思っている。でもやっぱりしんどい。私よりずっと長い事生きていて、私よりずっと沢山の理不尽に触れている筈の加藤シゲアキという人はどうしてあんなにも真っ直ぐに生きられるのだろうと思う。

どうしようもないので家の近所の精神科を探した。とりあえずADHDの検査をしたいので検査ができるところをと思った。摂食障害を持っている友達が勧めてくれたメンタルクリニックが偶然近所にあった上に、割とすぐに予約が入れられそうだった。瀬尾まいこ作「夜明けのすべて」でパニック障害を発症した山添くんが心療内科を探すも何処も何か月待ちとかで困ってしまうシーンがあったので私もかかれないかと思った。料金も思ったより安かった。お金がないのでバイト代から返すとして父親に貰う様に交渉した。母親さえ説得できればメンタルクリニックにかかれるとわかったら安心してほんの少しだけ泣いた。

どうにか課題を全て提出した。
最後の方はプレッシャーと吐き気と戦いながらだった。
「出せば良いんだよ出せば」
と思いながら自暴自棄になって空欄を適当に埋めた。私は自暴自棄になるとヨルシカの「春ひさぎ」を聞く。今回も御多分に漏れずそうなった。
「春ひさぎ」を聞くのに飽きたら「思想犯」を聞き、「昼鳶」を聞いた。
尾崎放哉が脳裏をよぎった。尾崎放哉は自由律詩ばかり作っていた俳人である。自由律詩は好きではない。でも「咳をしても一人」と「こんなよい月を一人で見て寝る」は名作だと思う。名作だと思ったから多分n-bunaさんもヨルシカの「嘘月」で「こんなよい月を一人で見て寝る」をもじって引用したんだと思う。思考は種田山頭火に飛ぶ。種田山頭火はクズのイメージがある。多分酒浸りで放浪していた所為だと思う。種田山頭火は好きだ。まず、ペンネームが良い。多分火という字が想起させるイメージの所為だけれども、やたら赤そうである。種田山頭火を思うと自分の方がマシな人生を送っている気がする。太宰治の生涯は見ていて身につまされるけれど、種田山頭火の生涯は「これはどうしようもないクズだ」と指をさして嗤ってしまえる気がする。とんでもない不遜である。そしてそんなクズなところが愛おしい。杜甫より李白が好きだ。それってつまりそういう事だ。酔っ払って水に映る月に手を伸ばして、そのまま水に落ちて溺れて死んだ。苦しそうだけど随分ロマンチックだ。溺死というのはその瞬間当事者が感じるであろう苦しさとは裏腹に随分ロマンチックな感じがする。ヨルシカの「だから僕は音楽を辞めた」でスウェーデンを旅した青年は最後花緑青を飲んで海に飛び込んで死んだ。自殺というのはよろしくないのだろうけども、良い死に方だと思う。だいぶロマンチックだと思う。でも実際のところ私は苦しまずに死にたい。それなら老衰しかない。老衰を狙うには人生は長い。
急に種田山頭火を、それどころか太宰治も上回るクズになりたいと思ったので、人を殺したいと思った。巻き込まれた人が迷惑だからやめた。私は頭がおかしい。「僕の心のヤバイやつ」の最初の方の市川京太郎みたいな事を言っている。自暴自棄なのかもしれない。30歳になる前に死にたい。
締め切りの1時間前からはキタニタツヤの「私が明日死ぬなら」を聞いていた。死ぬ気なんてなかったけれど、この曲を聞いている間は死なずに済む気がしていた。母親が目の前でSnow Manを見るから私も課題をやりながら一緒に見た。Snow Manはそこまで好きじゃないけれど、それはそうとして愉快な連中ではあると思う。バレンタインの時に大量に貰ったチョコレートを全部友チョコだと誤魔化し、幾つ本命チョコが混じっていたのか言わなかった阿部ちゃん(阿部亮平)はあざといけれども賢いと思った。

とある精神科医のYouTubeの動画を見ていたら、私の現状の幾つかがうつ病の症状に該当する事を知った。眠れない訳でもないしご飯も普通に食べているので自分がうつ病かもしれないというのは思いがけない事だった。
否、そんな事はない。
それは「自分はADHDなのではないか」という疑念と同じ温度感で付き纏っていた疑念だった。本当にそうなのかは知らない。ADHDにも気分の落ち込みの様なものはあると聞く。早く精神科にかかりたいと思うしかかるべきだと思う。母親にそれが言えない。

サンドウィッチマンの病院ラジオという番組を見ていたら、がん患者の人が沢山出てきた。
「こういう人達を助けられる人になって欲しいな」
と母親は言った。
「医師はもう無理だ」
とは言えなかった。

父親に
「何か困ってる事があるなら何でも話して良いんだからね、ママに言えない事もあるだろうし」
「心療内科なんて怪しいところも多いしまずはかかりつけ医の総合診療医の先生にかかったら」
と言われた。そういう事じゃないのだ、と思ったけれど、言ってみても無駄な事なので何も言わなかった。父親からも理解されていないのだと知った。

私が悪いんだろうか。悪くないと思いたい。でもこうも受診を止められるなら私が悪いのかもしれない。
もう何人もの人に
「そういう人って結構居るよ」
と言われた。医師の人にも言われた。課題が出せなくて留年しかける奴がそんなにあっちこっちに居てたまるか。そんな人があっちこっちに居たら時間厳守が取り柄の日本社会など回る筈がない。
やっぱり私がおかしいのかもしれない。この先普通に生きていける気が全くしない。

両親と買い物でデパートに行った時、急に
「教授は私を心配していた訳ではないのではないか」
と思った。私の研究室の教授はとても優秀で、確か何処かの学会の何かの役職をやっていて、その分野の論文をGoogle Scholarで検索するとよく名前が出てきたりして、多分その分野では結構名前の知れた人だと思う。
(勿論そんな学生は僅かだとは思うが)同級生の研究室にはコアタイムすら無視してしまう先輩も居たりして、でも私の研究室にはそんな人は1人も居ない。先輩方もみんな真面目で優しくて優秀だ。
そんな研究室に課題が出せなくて留年した学生が居たらさぞ見栄えが悪いだろう。そんなのでどうこうなるかは知らないが、そんな最低の学生が居たら研究室に割り振られる費用が減額とかされてしまうのかもしれない。
だから教授は私が留年しそうになって焦ったのではないか。急にそんな気がしてきた。
教授からは
「引き続きよろしくお願いします」
とメールが来ていた。何だか泣きそうになった。

翌日の昼間に「アッコにおまかせ!」を見ていたらジャニー喜多川の事は全力で批判していた司会が当然の様に松本人志を庇っていた。何だかとてつもなくしんどくなってしまって私はベッドで布団を被った。
母親に心療内科に行きたい旨を泣いて訴えたが、かつて職場の人間関係で心を病み過換気症候群になるまで至った母親は
「まあそんな時期もあるよ、SNSから離れてリフレッシュしなよ」
と言った。
「そういうのに関してはママの方が先輩なんだから」
「心療内科なんてそんなところ行っても話聞いて薬出されて終わりだから」
そういう事じゃない、と思った。何だか私が何かしらの診断を受けても誤診だと言われそうな気がした。
「薬漬けにされるかもしれないから心配だ」
というのは一理あると思った。でも友達の紹介だし大丈夫だろうと思った私は気にかけなかった。
教習所に申し込みに行かなければならなかったけれど、私は絶対行きたくなかった。2ヶ月待ちとの事で教習所の申し込みは一旦やめる事になった。ほっとした。
私はベッドで寝ていたかったが、母親は
「1人にはしておけないから」
と買い物に連れ出そうとした。私は泣いて反抗した。今思い返せばかなり幼稚な振る舞いであった。
「1時間も無駄になった」
と母親が呟いた。父親はずっとゲームをしていた。両親が心配しているなんて嘘だと思った。黙って死んだ方がどんなにしんどいか分かって貰えそうな気がした。
結局母親に押し負けて外出した。ずっと心がしんどいので車の中でTwitterばかり見ていた。
もし私がこのまま何処にも外出できなくなって、研究室にも行けなくなったらどうしよう、と思った。
優秀な同期で私の事を気に掛けてくれている(様に思うけれど、もうとっくに呆れて軽蔑しているのかもしれない)○○くんも優秀な先輩の✕✕先輩も、教授も心配するかもな、と思った。心配なんてされる訳がないのに。ずっと片想いしていた△△先輩の顔が頭から離れなかった。こんな私が好かれる訳がなかったので何も言わなくて良かったと思った。

家に帰って久々にあつ森(あつまれどうぶつの森)を起動したら1年5ヶ月ぶりだと言われてしまった。多分大学1年生の夏休みに毎日やっていたのでそれ以来らしかった。家にゴキブリが大量に居て焦った。友達はみんな私の事を心配していて、現実の人間よりよっぽど信頼できる様な気すらした。夕飯の時間までずっとあつ森をやっていた。

何だか急にムカムカしてきて
「どうせママは私が心療内科に行ったら世間体が悪いから嫌なんでしょう」
と言ってやった。
「どうせ私の事なんて嫌いなんじゃん」
「私の事なんて迷惑なんでしょう」
「早く邪魔だって言いなよ」
と言った。ずっと思っていた事だった。
私は母親の望んだ"良い子"じゃないから。Twitterばかりを見た。昔は母親を恨んでTwitterに悪口も沢山書いた。何度も家出をして、母親に手を上げた。母親も手を上げるので勝てた事なんてないけれど。児童相談所に通わされた事もある。沢山愛して貰った筈なのに、記憶の中の私はいつだって叱られて謝っていた。そんな私はきっと自分の記憶を都合良く改変しているんだと思う。母親を悪者にする為に。
「迷惑だなんて思ってない、悪い事をしているのはそっちなのに人の所為にしているだけだ」
と言われた。それはだいぶ正論だと思った。それはそうと母親にとって迷惑なのだとは思った。
「ママに嫌われてるって思うって事はあんたがママの事嫌いなんでしょ」
「違う」
違う。きっと私は、母親の事がずっと嫌いだった。
「じゃあ私がみんな嫌いだって言う訳」
「どうせそうなんでしょ」
母親の言う通りかもしれない。私は周りの人が大嫌いだから、周りの人に嫌われていると思うのかもしれない。
「ママが信用できないから陰でこそこそTwitterとかやるんでしょう。子供に信頼されてない親なんて終わりだよ」
「だってどうせ言ったら怒るじゃん」
「怒られるって思うなら普通はやらないんだよ」
きっとそんな私を見たら叱られるから隠れてゲームをし、隠れて本を読んだ。隠れてYouTubeばかり見たし隠れてTwitterをやった。勉強よりそっちの方がずっと楽しかったなんて言ったら、みんな私を嗤うだろう。
きっとそんな事を言ったら叱られるから、もう医師に興味がないなんて言えなかった。気づいたら私より周りの方が私の夢への熱量が高かった。乗せられやすい性格の癖に冷め易い私は、1日だけ医師を目指して残りの日はTwitterばかり眺めていた。
「死んでやる」
と言ったら
「おばあちゃんがそう言ったら怒る癖に自分も同じ事言うんだ」
と言われた。言われて当然だと思った。
「死んだら呪ってやる」
と言われたので
「呪いたきゃ勝手に呪えば」
と言い返したらひっぱたかれた。
「あんたはどうせおばあちゃんの事も嫌いだからおばあちゃんを連れて実家に帰る」
「あんたと一緒に生活なんてできない」
と母親は言った。恐らく私は祖母も嫌いだった。父親も4月から大阪で仕事をする事になっていた。これを機に家を売って私は大学の近所に引っ越したら良いのではないかと思ったけれど、父親は時折東京にも帰ってくるらしいのでそれは難しい相談らしかった。母親が実家に帰ったら困ると思ったけれど、それは我が家の家事全般を母親が担っていたからだ。私は母親をお手伝いさん程度にしか認識していなかったのかもしれない。
一家離散か、とぼんやり思った。我が家は俗に言う「機能不全家族」というやつだったかもしれない。知らんけど。
私が時々介護を手伝っている今でも祖母に手を焼き、祖母の所為で疲弊している母親は1人で介護したらそのうち発狂してしまうのではないかと他人事ながら心配である。しかしながら母親は祖母にイライラしている私にもイライラしている様なので、もしかすると1人の方が上手くやるかもしれない。

母親に無断で心療内科に予約を入れた。
母親は
「まだ扶養家族なのに」
と怒っていたけれど、全てをはっきりさせたかった。とっくに限界は超えていたんだと思う。
父親に心療内科に行く事と、留年しかけている事を話した。
母親と同じ大学を可ばかりの成績で卒業した父親は
「やっぱり理系は厳しいんだあ」
と言った。生来楽観的な性格の父親は何処までも能天気であった。
「でも万が一会社が倒産したら援助とかできないんだから、奨学金とか調べといた方が良いよ」
父親は笑顔で怖い事を言う。でも本当の事だ。成績が悪くても申請できる奨学金と、ついでに精神科の自立支援も調べておこうと思う。教授に相談したら少しは情報も手に入るだろうか。

そういえば教授に発達障害かもしれないと相談した時、
「まずは大学のカウンセリングを受けてみたら」
と言われたのに結局カウンセリングを受けないまま受診してしまった。

心配してくれていた友達に心療内科に行く事を伝えたら、
「よく決断したね」
と言われた。何が凄いのかよくわからなかったけれど、少し嬉しかった。

とっくに壊れていたし、とっくに道を踏み外していた。私に未来なんてない。今振り返りながら書いていたら勝手に泣けてきた。
こんな事を言ったら悲劇のヒロインぶっていると言われるかもしれないし、多分実際そうなんだろう。
それでも、母親ともう少し上手くやりたかった。

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