認知症介護小説「その人の世界」vol.31『この世のおわり』

この建物に何が突っ込んできたらいいだろう。

全て破壊されては困る。条件としては、僕の手脚を縛っている紐が取れること。ここから出られること。僕のように縛られている他のやつらも解放されること。

「助けてー」

どこからか叫び声が聞こえる。

僕がここから出られたなら、似たような建物を全部ぶっ壊してやる。それを犯罪と呼ぶならば呼べばいい。その時はじめて僕は犯罪者となる。

僕がなぜここにいて、こうしてベッドの上で手脚を縛られているのか? 少なくとも僕には分からない。僕はごく普通のサラリーマンだったし、ごく普通の家庭を持つひとりの人間だった。

そう、人間だった。

会社で叱られることが多くなったという自覚はあった。もちろん、わざとミスをするようなことがあるはずもない。時に身におぼえのないことで叱られたが、それが組織の圧力というものだと自分に言い聞かせた。圧力のバランスは常に変化する。僕はそれをあえて自分で変えようとは思わない人間だった。

それでも、あまりに不条理なことが続くと、さすがに僕にも堪忍袋というものがあった。僕よりも20も年下の小娘に罵倒されたのだ。自分のしでかしたことならば言い訳も言い逃れもせず真摯に対処するが、どう考えても僕には関係のない問題だった。それを早口でまくし立て、どう責任を取るのかと詰め寄ってくる。

黙れ、と言ったかもしれない。あとはデスクを蹴ったことしかおぼえていない。何か他にも破損させたかもしれないが、最後は数人に身体を押さえつけられて動けなくなった。誰も僕をかばってくれなかった。なぜだ? これは組織ぐるみのいじめなのか? 単純にこれが組織というものなのか? それとも僕がおかしいのか?

引きずられるように連れて来られた面接室で妻と会った。最近疲れているみたいね、と言われたような気がする。確かに疲れから記憶力や判断力は落ちるだろうが、僕の場合はそういうことではないと言いたかった。僕のミスではない。

そうなのだ、圧力の流れを左右するもののひとつが数だ。ある状況において、数こそが正しさになり得てしまう。僕のミスだと言う人の数によって、僕は訴えは真実にも嘘にも姿を変える。

あとはもう、地獄としか語れない。どこで何を言われ、どんな薬を飲まされ、どうやって長い間こうして縛られてきたのか、今となっては全て地獄という言葉のひとくくりで構わない。どうせ僕の言葉に耳を傾ける人は誰もいないのだから。

とにかく、ここから出るしかない。どうにかしてここから出たら、同じ思いをしている仲間を解放しよう。そして僕は叫ぶ。このくたびれた身体から声を絞り出して。僕と、そして仲間たちの名誉のために。

僕らは、犯罪者じゃない!

縛られる理由などない。排泄物をたれ流し、何もない天井を見上げる膨大な時間の中で、僕らには人間として、いや、生命としての尊厳などない。尊厳て何だ? 教えてくれよ、日本国憲法さん。

起き上がりたい。腕を曲げたい。脚を立てたい。違う景色が見たいなどという贅沢は言わない。今、この瞬間、無意識に寝返りを打つという当たり前のことがしたい。腰を浮かせてみる。肩を持ち上げてみる。爪先の角度を変えてみる。踵をずらしてみる。少しでも動けば紐が食い込む。全身が悲鳴をあげる。どうにもならない。助けてくれ、助けてくれ!

僕は、首輪と紐でつながれた犬を想像した。自由に身体を動かせる場所を与えてほしい。決められた場所で小便をしたい。湿った股には何が当たっているのか、そこに尿を出すことも時間とともに意識的ではなくなっていく。じっとりとぬるくなり、しばらくとすると痒みが根を広げる。悲しいことに痒みをどうにかしようと身体をねじらせている間は、他のことはほとんど忘れられる。

「一生ここにいろ」

僕の視界に入るたびにそう言う女がいる。格好からして看護師か。僕は女の顔に唾を吐きかけてやった。女は僕の手脚の紐を更にきつく締め上げ、ベッドを蹴り上げて出て行った。僕が会社のデスクを蹴ったことと何が違うのか。あの女こそ、僕と入れ替わればいい。なぜそうならないのか。説明できないなら誰かほどいてくれ。女の言うように一生ここにいなければならないなら、もう、この世の終わりで構わない。

「失礼します」

ゆっくりと3回ノックする音がしてから、男の声が入ってきた。

「こんにちは……」

遠慮がちながらも凛とした声の男は、ベッドの横に立って僕の上にかがんだ。グレーの頭髪が整った、穏やかな目の男だった。たったひとめでも感じさせる品格というものが、その男にはあった。

はじめまして、とその男性が言った。僕はうつろな目で相手を見上げた。言いたいことなど山ほどあったはずなのに、男性を前に何も言葉が浮かばなかった。

「苦しかったですね……」

男性が僕の手を取った。

「あと少しだけ、辛抱してください。今すぐでなくて本当に申し訳ないですが、必ず、これをほどけるようにします」

濁った僕の瞳に何が宿ったか、相手には見えただろうか。僕は微かに男性のほうに首を向けた。

「あと少し、あと少しです。必ず」

男性は両手で僕の手を包み、じんわりと力を込めた。

僕が人間らしい姿に戻ってから再び男性に会ったのは、解放された仲間たちと畑を耕している時だった。

「あっ、理事長」

誰かの声で僕は鍬を置き、振り返った。白衣を着た男性の笑顔からあふれる温かさが、陽ざしとともに降り注いでくるように僕には見えた。

「あの人、新しい理事長なんだって」

仲間のひとりが僕の耳元で囁いた。

※この物語は、入所施設や精神科病院で認知症状態の人が身体拘束を受けている状態を想像して描いたフィクションです。

【あとがき】
精神科病院において治療が終わる状態というのは『落ち着いた』と聞かされることが多いですが、それは『大人しくさせられた』と表現するほうが相応しいように思います。

認知症がひとごとではないのだから、身体拘束もひとごとではありません。経験者に監獄とも表現される精神科病院の入院や身体拘束の状態は、それを受ける本人が納得しなければ実施する人のほうが異常者とも言えるでしょう。身体拘束から生まれるものは、憎しみです。

ここで「認知症の人の歴史を学びませんか」(宮崎和加子著、中央法規出版)をご紹介しておきます。精神科病院の実態を映した写真の数々は、モノクロでありながら病院によっては今も変わらず続いている世界です。

どうか、この作品を自分ごとと思ってくださる方が増えますように。

悲しみや苦しみ、切なさ、喜び、そしてきらめきは誰もが持ち合わせ、それは認知症であってもなくても同じです。より深い理解のため、物語の力を私は知っています。

※この物語は2017年10月に書かれたものです。

私の作品と出逢ってくださった方が、自分の世界をより愛しく感じられますように。