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『一緒に見たい!』

皆さんこんにちは。

今回は自分の地元への思いについて書いていきます。
自分が住み、競技をしているのは長野県の上伊那郡という地域になります。

上伊那郡は中川村、飯島町、駒ヶ根市、宮田村、伊那市、南箕輪村、箕輪町、辰野町で構成されています。

まず最初に地元での思い出を書きたいと思います。

『中川村で育ちました』

自分は長野県の中川村という人口5000人ほどの小さな村で育ちました。
小学校時代に野球をやっていましたが、持ち前の運動音痴を十分に発揮して上手くいかず、中学では絶対部活に入らないと誓っていました。ですが、親に部活だけは入りなさいと怒られたため、しぶしぶ部活をやることしました。

しかし、野球とバレー部の監督はめちゃくちゃ怖いし、そもそも運動音痴だし、吹奏楽部は音感もリズムもないし無理、どうしようかと悩んでいました。そこで出会ったのが陸上部で、顧問の先生は優しそう、走っているだけでいいじゃん、何ならサボれそう。そんな感じで自分の陸上人生はスタートしました。(顧問の先生のあだ名はグッピー、みんなでそう呼んでいました)

この時はまさか16年間陸上を続けるなんて夢にも思っていませんでした。中学時代のメイン練習は毎日朝学校に遅れそうになって、家から学校までをカバンを担いで全力走ることでした。いつもぎりぎりに登校してすみませんでした。

そんな自分でしたが、中学3年生の頃に陸上クラブが設立され、理由は覚えていませんが何故か勢いで陸上クラブに入りました。練習内容は準備体操をしたら、ひたすら走るだけでしたが、毎回競争だったので1番でゴールできた時はすごく楽しかったのを覚えています。

そして、自分の他数名走れる選手が増えたこともあり、長野県中学校駅伝でチームはまさかの5位入賞を果たします。そして北信越中学校駅伝でも6位入賞の快挙を果たしました。
2回とも入賞祝いに地元にある焼き肉屋さん【いさわ】で『まさか入賞できるとは!』と盛り上がりながら焼き肉を食べたのが今でも懐かしいです。


『上伊那農業高校へ』

高校に進学する際には、特にやりたいことを決めていませんでした。伊那市にある上伊那農業高校陸上部に中学の先輩がいて、ある日

『陸上部にこない?』

と誘われました。中学校の駅伝が楽しかったこともあり、自分は上伊那農業高校に行くことを決めました。ちなみに通学は片道70分でした。家族のみんなへ、自分を毎朝6時前に駅まで送ったあと、また夜8時に迎えに来てくれてありがとう。

高校2年生の正月の時に、箱根駅伝で当時治療でお世話になっていた、 中塚鍼灸接骨院の先生の息子さんが箱根駅伝の6区を走りました。ちなみに山梨学院大学進学後に、自分が箱根駅伝6区を走りたいと思った理由でもあります。そこで、中塚さんが箱根駅伝を走っているのを見て、自分は箱根駅伝に興味を持ちました。

箱根駅伝に興味を持ちましたが、本気で目指したいとは思っていませんでした。高校3年生になるときに、陸上部の顧問の先生が、現在は強豪校である女子の長野東高校陸上部の監督である横打先生に変わりました。その横打先生に進路のことを聞かれたときに、

「箱根駅伝走りたいです」

と答えました。すみません横打先生。今だから言えますが正直なんとなく憧れがあったのでそう答えました。その答えを聞いた横打先生は本気で自分のために動いてくれました。先生がいなかったら箱根駅伝を走れませんでした。

当時全く面識がなかった山梨学院大学陸上部監督の上田監督に、自分を推薦してくれたのも横打先生でした。そして強化・育成グループは無理だけど、当時あったサテライトであれば寮には入れないけれど、そこでもいいならという話になりました。(最終的に寮には入れることになりました)

話は脱線しますが、横打先生に上田監督に一度走りを見てもらってこいと言われ、山梨で行われた記録会で5000mを走ったら18分23秒かかりました。女子選手に周回されてしまうタイムです。記録会の日は新人戦の日で横打先生はいなかったのですが、次の日まで続いていた新人戦の応援に行ったところ、ものすごく怒られました。そして、競技場について40分で泣きながら電車で家に帰りました。

怒られたと書きましたが、一方的に怒るのではなく、ちゃんと自分から理由や状況を聞いてくれましたし、新人戦の応援をせずにすぐに電車で帰らせる理由も説明してくれました。(親にも説明してくれました)ちゃんと冷静に自分を見つめて考えさせる時間を与えてくれました。この経験がなかったら、今一人で競技を続けることはできませんでした。本当にありがとうございます。


『高校時代の長野県縦断駅伝』

長野県縦断駅伝とはその名の通り、長野県を上から下まで縦断する大会で、去年68回目を迎えた歴史のある大会です。全22区間・総走行距離216.9Kを2日間に渡って襷で繋ぎます。箱根駅伝の総走行距離が217.1Kと考えると、その長さが分かります。

この大会は県内の地域ごとにチームが分けられています。チーム内編成は社会人、大学生、高校生、中学生の各年代ごとに走れる区間と、登録できる人数が決まっています。ですので、上伊那で走っているからと言って出場できるわけではなく、毎年メンバーに選ばれる必要があります。

この大会は県内普及率55%と長野県内でも有名な、信濃毎日新聞という新聞社が主催の大会でもあり、新聞にもかなり大きく取り上げられる大会でもあります。また地元のテレビ局であるSBCがラジオで実況もしてくれる大会でもあります。

高校2年生の時初めて上伊那チームのメンバーとして選ばれましたが、この「メンバーに選ばれる」ということに対して特別な思いがありました。それはインターハイ路線も県大会止まり、駅伝も3年生の時には北信越に出場しましたが、高校2年生の時は行けませんでした。ですので、長野県縦断駅伝は『他にはない自分にとっての大きな大会』という思いがあったからです。

この大会がなかったら高校3年間陸上を頑張ることはできませんでした。大学時代は箱根駅伝の関係で出場できませんでしたが、社会人になり地元に戻って来てからも、再びメンバーに選ばれ何度か出場しています。


『社会人になってからの長野県縦断駅伝』

社会人になってから4回出場させていただきましたが、その全てで区間賞を獲得することができました。また2回も最優秀選手に選んでいただきました。

自分の地元である中川村を走った時には、地元の方々が僕の名前をわざわざ旗に書いて応援してくれました。そして『桃澤頑張れ!』と名前で応援してくれました。箱根駅伝の時は声援は多かったですが『山梨学院頑張れ!』と大学名で呼ばれることが多かったので、箱根駅伝を走ったときよりも嬉しかったです。

この写真に写っている方ではないのですが、よく自分が出場するレースに、自分の名前を書いたプラカードを持って応援してくれる方がいます。広島で行われた都道府県対抗駅伝に長野県代表として出場したときに、同じように自分の名前が書かれたプラカードを持ってきて、応援にきてくれた時は驚きました。

いい走りができず申し訳ありませんでした。

それでも

『連れてきてくれてありがとう』

と言ってくれました。都道府県対抗駅伝には親も来てくれましたが、同じ言葉をかけてくれました。

嬉しかった。

『近所のスーパーのレジ員さんに、頑張って、いつも元気もらっています。』と言われたとき

自分がよく使うでスーパーで買い物をしていたら、よく会うレジの女性の方がいて

『今日あそこ赤のウエア着て走ってたよね?』

と言われました。ビックリしながらハイそうです。と答えたら、

『頑張ってください、応援しています、いつも元気もらっています』

と言われとても嬉しかったです。どうやら自分のランニングコースが通勤で使う道だったらしいです。今でもよく応援してくれる優しい方です。

長野県縦断駅伝で地元・中川村走った時には小・中学校の同級生も何人か応援に来てくれました。あとで「お疲れ様!頑張ったね!元気もらえた!自分も頑張る!」と言ってくれました。

元気もらえたと言われるのが、こんなにも嬉しいとは思いませんでした。ちなみに、その同級生の一人は翌年僕の走る区間を間違えて別の選手に対して、僕の名前を呼んで応援するという痛恨のミスをしていました。翌年も応援に来てくれてありがとう。次は間違えないでね。


『16年間陸上を続けてこられたのは』

今年で陸上を始めて16年が経ちます。ここまで続けてこられたのは凄く幸せなことです。

中学の時の陸上クラブの指導者の方は、今も会うたびに頑張ってねと言ってくれます(去年の諏訪湖マラソンではスタート前に声をかけてくださりありがとうございました)

自分が過ごした上伊那農業高校は自分が練習拠点にしている、伊那市あります。後輩が一生懸命頑張っています。その姿を見て自分も頑張れています。頑張れ後輩

わざわざプラカードまで作って応援してくれた地域の皆さん

元気をもらえたと言ってくれた、レジの方、同級生のみんな

今でも相談に乗ってくださる横打先生。長野東女子陸上部就任の時の記事で、指導実績が自分になっていたのは嬉しかったです。

長野県縦断駅伝がなかったら、地域の人に自分の走りを見てもらうことはできませんでした。

この中川村、伊那市、上伊那という場所でなかったら自分はここまでやってこれませんでした。それは、応援してくれた人、一緒に喜んでくれた人、この場所があったからです。だからこそ

『地元に何か恩返しがしたい、この地域のために何か行動を起こしたい』

とずっと思っていましたが、ずっと『何か』のままで何をすればいいか分かりませんでした。


『自分は中川村、伊那市、上伊那のことを知らなかった』

前回の記事に続き同じツイートを引用しますが、このミーティングでエース栗原さんの熱い思いや、取り組んできたことを聞いていた際に思ったのは

『そもそも自分は中川村、伊那市、上伊那に住む人々や、ここにしかない物、場所のことをあまり知らない』

ということ

知ってはいるけど言ったことがないお店、有名だけど言ったことがない場所、知っているけど買ったことのない名産品、有名じゃないけど隠れた穴場みたいな所、そして、そこに関わる人たちのことも

正直ショックでした。

自分が最初にすべきことは、『地域に何ができるか』考えることではなく、まず『地域の人々、ここにしかない物、場所を知る』ことでは無いかと思いました。


『一緒に見たい!』

地域のことをあまりに知らない自分ですが、それでも地元のために行動します。何よりこの中川村、伊那市、上伊那という場所が好きだから。

この『この一緒にみたい!』という言葉が自分の一つテーマだと思います。

そういえば都道府県対抗駅伝の時に、ここまで連れてきてくれてありがとうと言われたときは、一緒に自分も嬉しくなりました。長野県縦断駅伝の時に同級生に元気をもらえたと言われたときは一緒に自分も元気が出ました。、

『一緒に見たい!』と思えるような景色を作ることが、僕が悩んでいる『今地域に何ができるか』の答えなのかもしれない。

そのためにもまずは、この中川村、伊那市、上伊那という地域のことを知るところから始めないと行けないと思う。答えは出ないかもしれないけれど、今のままだと自分がいいと思ったことを地域の人たちに押しつけてしまいそうだから。

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