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なにが聴こえるの?

いきなりですが、私の創作の理想像は雷です。
あのスケールの立体音場にも憧れますが、実際に命への危険があるからこその魅力がある。

寝ていた猫が香箱座りになったかと思えば雷が鳴り出し、また横になると雷が遠ざかっている。
人間には聴こえないものがあるのだろうと感動する時間でもあります。

ただ、実際に鳴ると大変で、鹿児島県内は昨日、停電の地域も多かったようです。
大好きな超多忙の作曲家が、スタジオにUPS(無停電電源装置)を導入しているが、流石にデータなどが壊れると怖いから雷がやむまではコンピュータをシャットダウンすると仰っていて、私もそれに倣うようになりました。

なので、昨日は作業を早々に諦めて、読書に集中しました。

私はずっと本を読む習慣が無くて後悔したので、読書に関するマイルールを幾つか決めています。
例えば、西野亮廣さんや渋谷慶一郎さんが紹介する本は出来るだけ購入しようとか。

買ってはみたものの積んでいるだけの本もありますが、中には、パッと取って拾い読みするだけで面白いものもあります。
何度も手に取るのは本多勝一『日本語の作文技術』ですが、昨年だと東浩紀『訂正する力』もそう。

この中で、今が「世界中で政治が文化を呑み込み始めている時代」という前提から、新たな平和主義の構想として「作為的に自然をつくる」という提案が出て来ます。
コロナ禍になって「人はもう作為に感動できない」と言われたものの、実際はそうでもなかったようだし、この提案はどういうことだろう?

詳細は本をご覧いただきたいのですが、私はこの言葉から創作と生活の面で影響を受けました。

私は今、フィールド・レコーディングを作品に採用することを一旦やめています。
以前中断した時は、複雑な不規則性を容易に持ち込めることへの警戒感が理由でした。

evalaさんの作品の宣伝で「環境音の写実性を楽音に並走させただけの、あるいは微細振動を拡大しただけの従来のフィールドレコーディング作品群」と挑発的に書かれたのが14年前でしたが、こういった音は思い出や思い入れと不可分で、今回は作品に入れることで自然主義的あるいは私小説的な態度に偏りがちになることに危機感を覚えたんですね。

最近の台風は過去最大級と報じられることが増え、それはもう恐ろしいのですが、台風で右往左往した記録で作った作品を昨年発表しました。
面識もなければSNSで繋がってもいない藤倉大さんから反応があった時は手応えを感じましたし、私の力で藤倉さんに届けるなんて不可能な訳で、シェアしてくださった方々にも感謝しましたが、音としては面白くても、それは旧来の面白がり方で、未来に繋がる提案が一つでもあっただろうかと疑いもした。
猫も杓子もフィールド・レコーディング、モジュラーシンセという現在、この程度の使い方じゃダメだ。

人工的な音によって大自然の咆哮を生み出すVladislav Delayについて以前触れました。
その音楽はライフスタイルと多くの機材を売り払ったことによる転換を経て、音楽生活の比重を自然散策にずらし、自然の轟音に耳が慣れた末に生み出されたものらしい。
コンピュータの中に自然を生み出すのであれば、他の名前も挙げられるでしょう。

最近モジュラーシンセの動画を連投されている落合陽一さんの「デジタルネイチャー」じゃないですが、音で人間を超越したい。
私が宇宙や神話について言及するようになったのは、それは遺構であったかも知れないが、昭和の電子音楽にそういうタイトルがあったことと無関係ではありません。
未来を夢みる力を失う代わりに顕微鏡的な耳を手に入れたのであれば、その耳をもって今度こそ未来を夢みることは出来ないだろうか。

で、それを実現させるための勉強を始めたと。
焼け石にスポイトで水を垂らし続けるような勉強ですから、この一生で作品と呼べるものを発表できるのは、あと1回あるかどうか。
そこへの助走の過程は常に晒し続けるとして、でも、それでもいいんじゃないかな。

長くなったので、『訂正する力』に影響を受けた生活面については少しだけ。

厄祓いしなかったのが災いしたのか、一昨年と昨年はどん底を見ましたし、面白半分で損害賠償請求を勧める人まで現れた。
結局それはしなかったし、泣き寝入りで終わらずに済んだんだが、私自身が生まれ変わるくらいの覚悟を持たないことには、死ぬまでこのままだと考えたのです。

東浩紀さんは「まちがいを認めて改める」訂正する力について「『リセットする』ことと『ぶれない』ことのあいだでバランスを取る力」とも仰っています。
このことが指針となりました。
西野亮廣さんのオンラインサロンに入ったのもそう。

作曲家なんだから、面白い音楽を作らないとですね。
頑張ります。

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