たのしい創作活動が「復讐」になる瞬間

「CINEMA4Dなんか使ってるの?そりゃあダメだよ、話にならない」
「こんな作品をポートフォリオに入れちゃあダメでしょ」
もう15年以上も前、とある有名なCGプロダクションの偉い人は、僕の作品を見るなり笑いながらそう言った。
その時の記憶を鮮明に覚えている。プロダクションの会社名も、偉い人の名前も顔も、僕が「え、だめですかね」と困りつつ笑いながら答えたこともよく覚えている。

CINEMA4Dというのは当時から今に至るまでずっと使い続けているCG制作のソフトで、当時は今ほどのシェアはなく、業界的にはむしろ非常にマイナーな部類に入るソフトだった。
こんな作品と言われたのは、人間の皮膚のような質感の球状のオブジェクトに無数の釘が向けられていて、そのうちの一本が刺さってそこから血液のような液体が流れている、という、やや後ろ向きな作品だった。
たしかその時、大学の課題や授業が上手くいかず、自分が自分自身に対する期待に応えられないという、やりきれない気持ちを表現したくて作った静止画の作品だった。
特に作品に対してそういった説明を書いたわけでもなく、僕のポートフォリオは作品とタイトルと使用ソフトだけを記載した簡素なものだった。
当時、CG系の就職活動において各学校・書籍等で「何故その作品をどのように作ったか、そのために何をしたのか」を丁寧に数ページに渡って説明をするように教えていたと思うのだが、僕はそんなことでページ数を稼ぐのが嫌で、それよりも作品数と作品クオリティで見せてやろう!と意気込んでいた頃だった。

今思えば、そういった生意気な思想ももしかしたら読み取られていたのかもしれない。当時20歳そこそこの朝倉青年は自分でも生意気な奴だったと思う。
30代も後半の今なら、もしかしたらもう少し違った受け答えができたのかもしれないが、当時の自分には非常に不愉快かつ許せない対応だった。
どんな立場の人間であれ、人の作った創作物に対して直接言っていいことと悪いことがあると思っている。正直なところ、裏、つまり僕の預かり知らぬところで「今日きた朝倉って生意気なやつがよ、しょうもない作品見せてきた挙句、CINEMA4Dなんか使ってるってさ、笑っちゃうよな」とか酒の肴がてらに言われても別に構やしないのだが、就活イベントの場で、業界の代表としてそこにいる人間が言うことでは無いと今でも思う。

その後生意気な朝倉青年は紆余曲折ありつつも無事CINEMA4Dを使い続け、血の表現が入った映像を実際に案件として作り、コンテンツの人気も相まって、結果的にかなりの再生数をいただけたことが、あの時に話した某プロダクションの某氏が知ったかどうかでは定かではないが、ともあれ僕はあの時「え、だめですかね」と言ったときの困り笑顔と同じ顔で「いやー、だめじゃなかったですね」と言える立場になったと思う。

あの時の鮮明な記憶は確かにずっと覚えていて、15年以上経った今その結果を出していると考えたとするならば、あの時言われた言葉を「厳しい激励」あるいは「結果的には応援だった」と捉える方もいるだろう。確かにあのきっかけがあったからこそ、僕は意地でもCINEMA4Dを使い、意地でもあの作品で得たものを昇華させる機会を得ようとしていた。月日が流れ、そんなことを意識しなくなった今だからこそ結果を出すことができたのかもしれないし、ただ偶然上手く行っただけのことなのかもしれない、勿論CINEMA4Dは今も変わらずとても愛しているソフトで、血の表現はそのときに最適だと思ったから作っただけのことではあるが、潜在意識下には確実にあの頃の記憶があったのだろうなと今は思う。
それでも僕はあの時の記憶を激励や応援だとは思えないし、あの時から僕のCG制作は「楽しくやるもの」から「復讐のようなもの」に変わっていたと思う。

絶対に認めさせてやるという気持ちが最優先だったように思う。一定以上のクオリティではなく、絶対的に叩きのめすようなクオリティをとずっと思っていた。彼らが「ダメ」と決めつけたものを「むしろ素晴らしいものだ」と思われるようなものに変えたいとずっと思っていた。多分、そんな気持ちが根底にずっとあり続けたからこそ、今のような立ち位置でCG制作をできているのだと思うし、仕事の上でもクオリティもある一定の信頼感を得られたように思う。勿論、毎日毎日15年以上も前のことを思い出して仕事をしているわけではないし、楽しい仕事や楽しい制作の企画も沢山あり、自主制作も苦痛を持っているわけではなく、楽しいから作っているのは間違いない。
紐解いていくと根底がそこにあった、という話だ。

創作活動は楽しいに越したことはない。楽しくて寝食を忘れのめり込んで作り、それが評価されて成果やお金になることが最上だろうと思う。そうありたいと思っていた。
でも、僕の創作活動の根底はそのときに大きく変わり、仕事も自主制作も、その時の根底の記憶によってムキになっている部分が消え去らないのだ。

さて、最近のことではあるが、また別の創作活動を開始した。こちらも兼ねてからやってみたいと思っていたことで、頑張って僕なりに勉強をして、友人知人にも忙しい中で協力をしてもらい、一つの作品を発表した。
もちろん初めての作品で拙い部分も沢山あることは自覚しているが、その時の僕にできる最大限を出すことができた、という自負はしている。
だが、その作品は同じように非常に辛辣なことを言われた。言った人はただ1人だが、あまりにも強烈に僕の気持ちと記憶に突き刺さった。
そして思い出したのだ、15年以上も前のあの記憶と同じことだなあと。

僕はこの先恐らく、CGや映像ではない、こちらの新たな活動も、恐らく何年かの時間をかけて確実に何かしらの結果を出すだろう。自分で言うのもおかしいが、僕にはその自信がある。何故ならこれはもう「楽しい創作活動」ではなく「復讐」なのだ。僕は意地でも新しい創作活動でも絶対的なクオリティを目指していくし、結果的に何らかの形で多くの人に認めてもらうまではやめないだろうと思う。
きっとこの先、15年以上も前の記憶と同じように、辛辣なことを言われた記憶は日常からは忘れ去られ、意識せずに作り続けるようになるのだろう。でも根底は同じように、楽しいからというポジティブな原動力ではなく、絶対に許さない、必ずや結果をだして見返してやろうというネガティブな原動力を持ってしまったのだ。

できることならば…こちらの活動ではそういう気持ちに陥らず、楽しいからやりたいというポジティブな原動力を元に、クオリティもそこそこ普通だよねと言われるようなラインを出しつつ、気が向いた時に発表していければいいな、などと考えていた。「趣味」とするならそのくらいが1番平和で心の健康にも良いと思っていた。しかし強烈かつ辛辣な言葉は人の原動力を変えてしまう。ネガティブな原動力は瞬間的な実力や探究心を劇的にアップさせることができるが、反面、楽しさや面白さよりも「絶対にやってやる」という復讐の炎のようなものが滾ることになってしまう。この炎はなかなか消えず、いつまでも心の奥底で燻り続けていく類のものなのだ。

だからこそ今は、この新しい活動も「何らかの結果を必ず絶対に出してやろう」という気持ちが強いのだが、果たして、これは情熱と言えるものなのだろうか?もちろん辛辣なことを言われたことを差し引いて考えても、新しい活動は楽しいし、勉強するモチベーションも強く、まだまだ技術的にも感覚的にも発見の喜びに満ちている段階だ。もしも辛辣なことを言われなかったとしたら、その純粋な「新しいことを知っていく欲求」のモチベーションだけで作り続けていくこともできただろう。
しかし、記憶は植え付けられてしまった。こちらの活動でもCG映像と同じように「楽しいから」「好きだから」というシンプルな欲求ではなく「絶対に見返してやりたい」という強いネガティブな気持ちを含んでしまったのだ。

もちろん、新しい活動も、もともとのCG映像のほうも「そんなこと気にしないで、忘れてしまえばいい」という意見もあると思うし、そういったことを沢山の人に言っていただいた。それでも、消えないのだ。どうしても消えてくれないのだ。いつまでも頭蓋骨の裏にこびりついたコゲのように、なかなか落ちない頑固な汚れとなっているイメージだ。そういう記憶のコゲが生成されてしまい、こびりついた瞬間から、「たのしい制作」は「復讐」のようなものに形を変えて、何かしらの結果を出して自分が納得するまでは自分自身を許してあげられなくなるのだろうと思う。

同時に、僕自身も、例えば若手のクリエイターや友人知人後輩に対して、同じような思いを抱かせる言葉を言ってしまったことがあるかもしれない。
僕の言われた言葉よりももっともっと重く、辛辣で、きつい言葉を言われてなお、ネガティブな気持ちにならずに作り続けていけるクリエイターもいるかもしれない。
そんなふうに考えて行けば僕自身の感じているこびりつきなんて、とっとと忘れてしまうべきなのかもしれないし、反面こんな文章を書かずに自分がこれまで後輩や若手クリエイターに言ってきたことを思い出して反省するべきなのかもしれないが、僕自身というクリエイターはどうしても抗うことのできない性格なので、きっとこの先もそんな「復讐」のような気持ちをモチベーションに変えていくことで、結果を出していくのだろうと思う。

物語の世界ではこういった「復讐」に囚われたものは悪役として、破滅への道を歩むことになるイメージだ。情熱を燃やし、正しい気持ちとポジティブなモチベーションで突き進んでいく正義のクリエイターにはもうなれないのかもしれないし、最終的にはそういうクリエイターたちに滅ぼされてしまう側なのかもしれないと怯えることもあるが、それでも僕を突き動かすモチベーションの正体を知ることで、僕が結果を残せるようになるまで引き続き、頑張っていくしかないのかもしれないなと思った。

もし仮に・・・
同じように「復讐」の気持ちが消えないクリエイターの方がこれを読んでいたとしたら、僕は「それは悪いことではない」とは伝えたい。その気持ちさえあれば普通に勉強するよりも確実に成長することができる。自分の作ったものを客観視することができる。いつだって自分の作ったものの良し悪しを「本当にこれでいいのか?」と一歩引くことができる。そして何度も見直して研鑽を積んで研究して、最終的には確実に良いものを完成させることができるからだ。
苦しい気持ちや不意に訪れるフラッシュバックに悩むこともあるかもしれないが、あなたの作っているものは確実に「復讐」へとつながっているのだ。

反対に、もしもあなたが「楽しいからやっている、復讐とかちょっと・・・」と感じるタイプのクリエイターならば、それはそのままでいてほしい。創作活動は「つくってみたいから」「楽しいから」「自分の作ったのものが何かを変えていけるから」といったような前向き100%のものが確実な力を持っていると僕は思っている。逆に、どんなに辛辣なことを言われたとしても「復讐」のモチベーションへと転換しないようにしてほしいと心から思う。

15年以上前の記憶と最近の出来事がリンクしてしまい、ついこんな長文を書いてしまったので、せっかくなのでnoteに公開することにする。これはただのとりとめのないエッセイだと思って、ここまで読んで頂いた方にとって、何かしら「なるほどなぁ」と思う部分があったのなら幸いである。

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