人を殺したかもしれない

 秋桜という歌がある。秋桜は「このごろ涙脆くなった母が、庭先でひとつ咳をする」という、なんとも風情のある歌詞の歌だ。私は少しジーンとした。そして「この歌を聴きながら母の事を思えば泣けるかもしれない」と思い何度も聴いたが、いまいち我が家の「母親像」からかけ離れていて、うまく泣けない。我が家の母はアラフィフになっても滝行をする程の謎のエネルギーを持っており、そもそも「秋桜」というよりは「咲き乱れた大輪の薔薇」といった感じだ。

 この日から、私の母を思い泣ける歌を探す旅が始まった。

 有名な歌に「母さんが夜なべをして…」というものがあるが、うちの母が夜なべをしている姿を想像しても、ドクターマリオかときめきメモリアルをしている後ろ姿しか思い浮かんでこない。この歌も駄目だ。

 考えた結果「沢山迷惑かけたけどお母さんありがとう」系が良いんじゃないかと思えてきた。私といえば、書ききれない程の蛮行を繰り返し、母に迷惑をかけつくしてきた女だ。これでいこう。

 こういった歌を歌っている者達といえば、日本のラッパーであろう。探すまでもなく、出るわ出るわの親への感謝。まさか私の気持ちが日本のラッパーとリンクするなんて思ってもみなかった。

 しかし、どの歌を聴いても、いまいち心がノッてこない。そもそも彼らの歌う「悪さ」とは、一体どんな事なのだろう。校長でも殺したのだろうか。よくよく聴いてみると彼らは母親と同時に地元にも感謝をしている確率が高く、それほど大した悪さをしていたとは思えない。本当にワルだったのなら、もう地元に感謝なんてしていられるはずもないのだ。私はそこで日本のラッパーとの温度差を感じ、聴くのをやめた。

 その後も色んな歌を聴いてみたが、我が家の個性的な母を表すような歌はみつからなかった。しかしそれは思わぬ場所で、ある日急に見つかる事となる。

 私は、元旦那とクイーンのフレディマーキュリーの生涯を描いた映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観にきていた。フレディの美しいピアノから始まる、ボヘミアン・ラプソディという歌が、映画のタイトルになっている。その歌の歌詞はこうだ。


 「ママ、今人を殺してきた」

 「ママ、あぁ、悲しませるつもりはなかったんだ」

 「もし僕が帰ってこなくても、変わらず暮らして欲しい。まるで何もなかったみたいに」


 私は雷に打たれたような衝撃を受け、泣いた。私は人を殺した事はない。でも、泣いた。家族と、恋人と、富と、名声と、あらゆるものが目まぐるしく描かれている映画の中、フレディは「ママ、人を殺しちゃったよ」と歌ったのだ。こんな事を言ったらクイーンのファンにどつかれるだろうが、私は、この歌こそが私と母のテーマソングだと思った。

 その後は、毎日毎日何度もボヘミアン・ラプソディを聴いては泣くという、不気味な日々が続いた。


 「気ままに生きているから、少し良いこともあれば悪いこともある。」

 「ママ、人を殺してきたよ。
 頭に銃をつきつけて、引き金を引いたら死んでしまった。」

 

 ママ、人を殺してきたよ
 ママ、人を殺してきたよ
 ママ、人を殺してきたよ…


 ある日、私は自分のとんでもない変化に驚く事になる。

 平日の昼間、ニュース番組で、殺人事件を取り上げている時だった。それは酷い事件だった。私は人間らしく心を痛めたが、少し考えて「まあでも私も殺してるからな…」と、人の事は言えないなと自分を責めた。

 一拍置いて気付いたが、私は人を殺してなんかない。にもかかわらず、自分の歴史を塗り替え、あたかも殺人歴があるかのように、ごく自然に思い込んでいたのだ。

 危ない危ない、ちょっとボヘミアンの聴きすぎかな、と思ったが、この胸のざわつきは何だろう。

「私は本当に、人を殺していないのだろうか…」

 そんな不安が、頭の中で膨れ上がる。これは私の生き方が悪かったのだ。妄想の中で、何度も嫌いな奴を、殺してやる!と思っていたせいもあるのだと思う。いや、もう、正直に言おう。私は妄想の中で、何度も嫌いな奴を殺した事がある。

 ただ殺すだけならまだ良い(よくない)が、その殺し方や、殺した後の遺体の処理までを細かくシミュレーションしていたのが良くなかった。

 中でもお気に入りだった殺人方法は、私が販売業をしていた時に思いついたものだ。仕事の一環で、溜まった段ボールを、段ボールを崩す機械に放り投げるというものがあった。私は段ボールを「これはAさん、これはBさん」と、嫌いな人に見立てて投げ捨て、バキバキと音を立ててぐちゃぐちゃにひん曲がっていく様子を眺めるのが日課だった。

 他にも沢山の殺人事件を脳内で起こしており、その数を知れば名探偵コナンもアワを吹いて気絶する程であろう。その度に遺体の処理には手を焼いたものである。定番は、業務用ミキサーで団子にし、海にばら撒いて魚に食わせる方法や、穴を深くほり遺体を捨てて、猪や犬が臭いで掘り返すのを防ぐため、大量の唐辛子と共に埋めるというものであった。

 そんな妄想を毎日のようにしていた時もあったせいか、私は、本当に人を殺していないのかどうか、本気でわからなくなってきた。

 私は怖くなり、元旦那に「ねぇ、私って人を殺した事があると思う?」と聞いた。すると元旦那は「俺と出会ってからの5年間はしていないけれど、それより前の事はわからない」と答えた。ショックだった。
 普通なら「そんな事あるわけないじゃん笑」で済むはずなのに、そんな答えが返ってくるという事は、私自身それをやりかねないと思われているという事だ。

 私はいよいよ限界だった。パニック状態になり、泣きながらスマートフォンで「人を殺したかもしれない」と検索した。すると一番上に「強迫性障害なので治療をするように」と出てきた。そうなのだろうか。これは本当に、私の妄想なのだろうか。

 私はおいおい泣きながら、元旦那に今までの事をまるっと伝えた。すると旦那は極めて冷静に「とりあえず歌を聴くのをやめて、一月経っても落ち着かなかったら病院か警察へ行こう」と言った。

 私は大人しく言う事を聞いた。起きている事が辛かったので、眠剤を飲み、昼も夜も眠る日々が続いた。

 すると、一週間ほどで、よく眠れたせいもあり、とてもスッキリと晴れやかな気持ちになった。「殺してる訳ないじゃん、そんな当たり前な事、なんでわからなかったんだろう」と、少し前の自分が馬鹿馬鹿しく、まるで信じられなかった。

 馬鹿馬鹿しいが、念のためにここに、私は人を殺してもいないし、そもそもそんな度胸も行動力もない人間です、と書き残しておこうと思った。そうでなければ、またパニック状態に陥るかもしれない。

 ついでに、どうやら自分は洗脳されやすいらしいので、変な物を買わされたりしないように、とも記録しておきたい。

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