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小説①

「彼氏できたの」
水川が初めてそう言ったのは半年前、お互いそろそろ社会人生活にも慣れてきた頃だった。
少し前まで通っていた女子大の同級生だった水川には、それまで一度も浮いた話がなかった。でも水川は性格も優しいし、容姿だって友人の私が言うのも変だが色白で二重でかなりきれいだ。しかもファッションも素敵だ。雑誌で言うとFUDGEとかとかそういう系統。必死こいて貯めたバイト代10万で買ったというジャーナルスタンダードの黒いステンカラーコートがよく似合っていた。
そんな水川に彼氏ができないのは、中学からずっと女子校育ちで単純に機会がないからではないかと思い、学生時代には水川を誘って私の高校の頃の男友達が主催した合コンにも行った。でも水川は誰とも連絡先を交換せず、誰とも話さず、ただ一人で取り分けられた手羽先に黙々とかぶりついていた。余計なことをしてしまったかなと思い、後日謝ったら水川は「大丈夫だよ、ただタイプの人あんまりいなくてさ。こちらこそごめんね。あそこの手羽先おいしいね」と言った。それなりにイケメンを揃えてきたつもりだったが、理想が高いんだなとそのときは思った。しかし後日食堂で水川が「かっこいいよねーこの人!マジ結婚したい」と言って見せてきた画像は、お笑いファンの間ではかっこいい部類に入るが一般の人の目線から見ると普通かそれ以下くらいのルックスとされるお笑い芸人だった。この子のセンスはいいのか悪いのかよくわからないと思った。

ちなみに、水川は見ているこっちが心配になるくらいとろい。東京の雑踏のおおよそ平均的な流れに対して水川の歩き方は大体0.75倍くらいの速さだ。「中学から電車通学だったから人混みくらい平気だよ」と本人は言い張っているが、新宿に飲みに行く際には5回ほど私に置いてけぼりにされている。話をしていると思ううちに振り返るといつの間にか、改札から出てくる人に押し流されていなくなっているのだ。
そんな具合で、よく人を避けきれずにぶつかってしまうし、ぼーっとしているので後ろからくる車にも気づかない。ついでに口元もなんだか緩い上におちょぼ口なので、ペットボトルで水を飲むとき唇の端からよくダラダラこぼしている。去年の冬には10万のコートの上にもこぼしていた。あのときは本人より私がびっくりしていたと思う。水だったからよかったけど。
そういうとき私は水川の腕を掴んで道路の端に引っ張ったり、取り急ぎティッシュを出してコートの裾を拭いたりする。そのときの水川のきょとんとした、なんだか申し訳なさそうな目が私は無性に好きなので、私は卒業してからもよく水川と2人で飲みに行く。
そんな水川の彼氏と、私は今日初めて会う。なんでも巷で流行っているマッチングアプリで出会った人で、なんでも、一橋を出てから気象庁で公務員をやっている賢いやつらしい。写真を見せてもらったけど、すごく細くて今にも折れそうな人だった。
27歳で結構歳上らしい。
長野県出身らしい。
コーヒーが好きらしい。
大学では軽音サークルだったらしい。
サニーデイ・サービスが好きらしい。
新宿駅の、あの濁流のような雑踏で、彼は歩くのが遅い水川の手をはぐれないように繋いで歩くのだろうか。
水川の唇から溢れ出た水を、彼はちゃんと拭いてあげているのだろうか。

有楽町の職場から新宿に向かう電車の中で、まだ一度も会ったことがない彼の基本情報、そして彼と水川が付き合ってからの半年という期間と、私と水川が学生から社会人になるまでの5年間を振り返ってみた。たかだかマッチングアプリで、たかだか半年という期間で、水川の何が分かるというのだろう。
時間は20時半になろうとしていた。思ったよりかかってしまった。
「ごめん先始めてて!」
取り急ぎ、水川にLINEした。

現地集合で待ち合わせたスペインバル系の居酒屋には、水川とその彼氏が既に到着していた。
「初めまして、甲斐です」
甲斐と名乗るその男は思っていたより爽やかな好青年で、私は少し面食らった。白いアランニットがよく似合っていた。
「イノッチ!今日もお疲れ様。LINE来てたから早めに始めちゃってた。禁煙みたいだからタバコは表出てすぐの喫煙所で吸うようになるけど大丈夫?」
私はとりあえずうなづいた。
男と一緒に並んで座る水川を見るのは、あの時の合コン以来だ。
私たちはいろんな話をした。合コンで一人手羽先を黙々と食べていたエピソードに代表される、甲斐さんが知らないであろう水川の話をたくさんしたし、逆に甲斐さんからは私の知らなかった水川の話をたくさん聞いた。水川が最近Netflixでジョジョのアニメを観るのにハマっているということは知っていたが、それを甲斐さんが勧めたということまでは知らなかった。私だってマンガ8部まで全巻持ってるのに。

「そのときのミスターの表情がまた悲壮感たっぷりで…」
Netflixつながりで話題は「水曜どうでしょう」になっていた。
「そうかー、井上さんも水曜どうでしょう見るんだ!」
「そうなんですよ。ネトフリで観てからハマっちゃって。サイコロ5なんか最高ですよね」
「あー「はかた号不幸行き」の!俺もあの回本当好きで。1回ならまだしも2回も往復で引いちゃうのが本当持ってるんだかなんだか…」
酔っ払って明後日の方向を見だした水川を放置して盛り上がるくらい、私と甲斐さんはいつの間にやら意気投合していた。
途中で甲斐さんはタバコを吸いに席を立った。
「イノッチには言ってなかったけど私、甲斐くんで処女捨てたの。3ヶ月前に」
ランブルスコを4杯飲んでまあまあ酔っ払った水川の、聞いてもない暴露話だった。
「…よかったの?」
いつも友達ともっとそういう話をする時は根掘り葉掘り下世話なことを聞くものだけど、どうも相手が水川だと月並みな質問でしか返せない自分が腹立たしかった。水川は照れ臭そうにうなづいた。
そのうち甲斐さんは戻ってきた。
仕切り直そう。一旦一人になりたい。そう思った。
「ちょっと一服してきますね」

外に出ると、来たときよりグッと冷え込んだ外気に思わず身震いした。鞄の中でベコベコになったマルメンの箱から1本取り出して火をつける。
社会人になってからタバコの本数が明らかに増えた。今日も相変わらずの計画外残業で、今日の飲み会も結局30分遅れての参加だったのだ。タイムカードは2時間早く押した。
水川は甲斐さんと付き合ってるのか。
水川は、エッチしたのか。
あの、隣に座ってた甲斐さんと。
どことなく大泉洋に似ている甲斐さんと。
集合体恐怖症でとうもろこしが苦手な甲斐さんと。
甲斐さんからとうもろこしのフリットを代わりに食べてとせがまれ、困りつつも照れ臭そうにした水川の顔は完全に女のそれだった。そしてそれは、私が今まで見てきた水川の表情の中で一番可愛かった。
もしかしたら、甲斐さんが席を外しているうちにこっそりキスしてもいいんじゃないか…と余計な気を起こしたくらいに。
でもそれはやめた。水川はずっと甲斐さんの方を見ていたからだ。

甲斐さん、どうか水川とはぐれないでください。
水川とこれからも色んなアニメを観てください。
そして、水川の大事なコートがもし汚れたら、その時はすぐに拭いてやってください。

メンソールと一緒に冬の空気を吸って頭が冴えてきた。私は暖かい店内に戻るべく、喫煙所を後にした。

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