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“大正の広重”と名鉄と僕の奇遇な縁

仕事はあるんですが、正月くらい休ませろやってことで、お正月自由研究の発表であります。

先日書店でこのような書籍を目にしたので、速攻でお買い上げとなりました。

僕はいわゆる鉄オタでも名古屋鉄道こと名鉄専門でして、この類のムックはほぼ入手しています。
鉄道マニアに知られる音楽ユニット「スギテツ」の杉浦哲郎さんに尋ねると、特定の鉄道会社が好きなファンには総称がないようで「専門鉄って言うのかなあ」とのことです。

さて本書の表紙に使用されている、まるで鳥が俯瞰しているかのような画像。
これは見たまま「鳥瞰図」と呼ばれています。
こうしたパノラミックな図版をどこかで目にされた方も多いのではないでしょうか。え、少ないですかそうですか。

この鳥瞰図、日本では特に大正時代から終戦直後くらいまで、各地の観光案内、私鉄の沿線案内などに使用されていました。
その大半を手掛けたとされるのが、吉田初三郎という画家であり、広告プランナーです。
大正から終戦直後に渡り、生涯で数千点の作品を残し、「大正の広重」と呼ばれており、国内の自治体や私企業のみならず、海外からも依頼が殺到した人気作家でした。

ちなみに前傾の『地図で読み解く名鉄沿線』は初三郎の作品だけでなく、当時のチラシや国土地理院航空写真などの図版も豊富なので、昭和の地域資料としても価値あるムックです。よかったらぜひ。

さて唐突ですが、僕の出生地は愛知県犬山市大字継鹿尾字氷室というところです。

ご覧のように山と道路と、わずかな平地しかない場所です。

「氷室」の交差点あたりは北側に木曽川が通り、東西を標高200メートル未満の小山(というか断崖)に囲まれているため、ほとんど陽が射しません。
そのため天然の冷蔵庫があったと言われており、地名もそこから付けられたようです。

氷室交差点(2018年3月撮影)ユースホステルは背景山頂

現在この地区に建造物は「犬山国際ユースホステル」しかありません。
何を隠そう、この辺鄙な場所こそ僕の生家だったのです。

生まれた当時、僕の両親がこの犬山ユースホステル(当時)で食堂の業務委託を請け負っており、その建屋の東側に相当インスタントな建築ではありましたが、離れのような家を建てておりました。
僕はそこで生まれ、5歳まで生活していたのです。

もう一度地図で氷室交差点を見てみましょう。

交差点東側に緑で塗られたエリアがあります。
現在は駐車場と整備された緑地になっていますが、僕が住んでいた当時、この辺りには雑草が生い茂る中に、趣のある土壁のあばら家がありました。

標高150メートルほどの位置にある生家から坂を下り、交差点手前のポストまで新聞を取りに行くのが僕の仕事でしたが、いつもその先にあるあばら家が気になっていました。

ロープが張られていて、中に入ることはできなかったんですが、父から「あそこは香梅園という名鉄の土地なんだ」と教えられたことがあります。

実はこのあばら家こそ、かつて「大正の広重」と呼ばれた絵師・吉田初三郎の画室だったのです。
その遺構は昭和40年代の終わりまで確実に残されていたわけです。

ちなみに、初三郎は名古屋鉄道に依頼され、『日本ラインを中心とせる名古屋鉄道沿線名所図絵』(昭和3年)なる周辺の鳥瞰図を描いています。

日本ラインを中心とせる名古屋鉄道沿線名所図絵

さらに初三郎は『日本第一の河川美 日本ライン探勝交通案内圖』(昭和3年 犬山町役場発行)という作品に、当時の氷室の様子を詳細に描いています。

日本第一の河川美 日本ライン探勝交通案内圖

粗くて恐縮ですが、画像右側に「スケートリンク」があるのがわかります。
現在氷室交差点近くにある案内板にもこのことが触れられています。

氷室交差点南の案内板(2018年3月撮影)

そして「スケートリンク」の文字から左画に「蘇江画室」と赤地で表記された建物があります。

この位置は、現在の氷室交差点東、前述したあばら家にあたります。
これこそが、初三郎が活動拠点としていた蘇江画室だったのです。

現在は国際交流村の入口広場に(2018年3月撮影)

おそらく現在に至るまで、少なくとも100年間ほどこの氷室に住居はなく、数年に渡りこの場所で暮らしたことのある者は、吉田初三郎(とその弟子)、そして我が家しかなかったのでは、と推測します。
つまり時空を超えたご近所さんだったわけですね。

そもそも初三郎がこの地に住んだ理由。
京都から上京して構えていた画房と店舗が、関東大震災(大正12年)の被害に遭います。当人は取材で東京を離れていて助かったのですが、新聞や現地へ行った人から東京の惨状を知った初三郎は、帰京を諦めてしまいます。

ちょうどこの年、初三郎は名古屋鉄道(初代。現在は2代目)の依頼で日本ライン周辺の取材のために犬山を訪れていました。
画房を失った初三郎を見かねた名鉄の上遠野富之助常務が、社員の保養施設だった「蘇江倶楽部」を仕事場として提供し、合わせて周囲の観光プランナーとして貢献させたのです。
ちなみに「蘇江」とは木曽川の別称です。

初三郎は大正13年(1924)から5年ほど、この蘇江倶楽部を借りて画房である「蘇江画室」、そしてビジネスの拠点として「観光社」を設立します。
今風に言えばアトリエ兼広告代理店でしょうか。

昭和4年(1929)以降は、発注が殺到し蘇江倶楽部では手狭となったことから、500メートル東の不老滝近くの料亭・錦水樓に工房を移し、昭和7年(1932)頃までこの地で鳥瞰図を書き続けていたそうです。

その後初三郎は、本拠地を青森県の種差海岸へ移すのですが、その間に「観光社」を名古屋の東新町にあった陸田ビルへ移します。
実はこの陸田ビル、昭和33年頃まで中部日本放送から200メートルほど西方(東新町交差点の南西角)にありました。

観光社のあった陸田ビル(画面右上。昭和31年撮影)

中央の建物が上記画像の撮影から2年後の昭和33年竣工のCBC会館。この画像の右上に映る5階建てのビルが陸田ビルです。
個人的にはいろいろと感慨深いものがあります。

初三郎は犬山で居住する間、鳥瞰図以外にもうひとつ現存する”作品”を残しています。
それが、現在珍スポットとして知られる桃太郎神社です。

珍スポット 桃太郎神社(2018年3月撮影)

初三郎が鳥瞰図作りのために日本ラインを取材していた時、現在の犬山市栗栖周辺に「桃山」「猿啄城」「雉ヶ棚」、極めつけは町名である「犬山」と、桃太郎伝説にちなんだ地名や建物が残っていることを知ります。

そこで地元の支持者らとともに「日本一桃太郎会」を設立し、桃太郎伝説がこの地ゆかりのものであることを全国にアピールし、昭和5年に自ら政府に掛け合って創立したのが桃太郎神社だったのです。

これも名鉄主導で行われた日本ライン周辺の観光PRの一環と思われますが、吉田初三郎は地域プロデューサー的な仕事もこなしていたわけです。

ちなみに現在の桃太郎神社におけるランドマーク(?)となっている浅野祥雲作のコンクリートオブジェは昭和20年代に作られたものだそうで、初三郎は関与していないものと思われます。

日本ライン下りは数年前に廃止されてしまいましたが、現在も犬山城、犬山鵜飼といった古来の文化財に加え、犬山ラインパーク(現・日本モンキーパーク)、明治村、リトルワールドを作り、名鉄傘下で随一の観光都市となった犬山市。

もし初三郎が居住していなければ、犬山市の観光施設はここまで充実したものにならなかったでしょうし、もしかすると僕の生家となったユースホステルも作られなかったかもしれません。

当時の犬山ユースホステルには、歩いて10分ほどの犬山ラインパークのチラシ、割引券、招待券が名鉄から配布され、よく母と訪れては大催事場の『大怪獣博』などを観たものです。

当時の犬山ラインパークは、関東で言えば二子玉川園のような怪獣イベントのメッカであり、僕の後々の趣味にも多大な影響を残してくれました。名鉄さんどうもありがとう。

ちなみに桃太郎神社の社務所を覗いてみたら、ちゃっかり初三郎の写真も飾られていました。
これが犬山市に現存する唯一の初三郎の痕跡ではないでしょうか。

ラジオ局勤務の赤味噌原理主義者。シンセ 、テルミン 、特撮フィギュアなど、先入観たっぷりのバカ丸出しレビューを投下してます。