人前で話すのが苦手だが、読み書きをしまくってたら、周りからは話すのが得意な人だと思われるようになった。

いわゆる「話す・聞く能力」を、まさに、〈話す・聞く〉活動によって伸ばそうとするのは悪手なんじゃないかと思うときがある。

自分は「話す・聞く能力」をどうやって身につけたのだろうか、と考える。明らかに読み書きによって身につけたのだろう(〈話す・聞く〉行為によって身につけたのではないだろう)と思う。

なぜなら、私はそんなに人と話すのが好きではないからだ。人前で話すのはもっと嫌いだ。だから、「話す・聞く能力」を〈話す・聞く〉行為によって身につけたとは思えない。

しかし同僚に「私はほんとに話すのが苦手で」と言うと、必ず謙遜だと取られる。なんなら、「ぜひ話してください」と依頼される。

もちろんお世辞かもしれない。その可能性はある。でも、可能性は低い(体感)。みんなベタにそう思って言っている感じがする(まああくまで感じがするだけだから、実際のところはわからない。)。

教職に就くと、人前で話さなければならない機会は多くなる。嫌いでも関係ない。苦手でも関係ない。業務上、話さないといけない。

私はずっと、「学校の先生はなんでこんなに話がおもんないのだろう」と思ってきた。自分が、児童・生徒であったころから思っていたり教員になって、他の先生方の話を聞いて、より強く思うようになった。

自分はこんな面白くない話をする人間にはなりたくないと思った。せっかく話すなら、聞いている人が何かを得られ、かつ、おもしろいと思えるような話をしたいと思った。

そんなわけで、まずしたことは、授業でも集会でも会議でも、話をするときには、必ず原稿を作るということだった。メモじゃないよ。文章で、話す通りに書くのだ。

職員朝礼の連絡事項を伝えるときも、必ず書いて読む。研修で説明するときも、話す内容そのままを書いて読む。全校生徒に対して分掌の主任として話をするときなんかは、もちろん書いて、事前に時間を測って練習する。

話すまでに時間がある時には、原稿を何度も読んで修正する。読んだ本の引用もする。

まさに読み書きをするのである。

こんなことを何年も続けていると、書かなくてもどんなふうに話せばよさそうかわかってくる。どのくらいの長さで一文を切ればいいかもわかる。

こうして、〈話す〉ことができるようになってきた。

ただ、いまだに話すのに苦手意識はある。しかし、少なくとも話せるようになった。読み書きによって。

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