見出し画像

自民党vs.マスコミで見る戦後史!【『日本政治とメディア』を読んで】

はじめに

 広告企画会社に勤務した後に東京大学法学部と大学院を卒業したという異色の経歴を持つ逢坂巌氏の『日本政治とメディア テレビの登場からネット時代まで』(2014年、中央公論新社)の感想を述べる。

 本書は、日本の「独立」から現代までの、内閣総理大臣でいうと吉田茂から安倍晋三までの国家をめぐる政治の歴史を、メディアとの関係から記述したものである。冒頭に「主要政党と首相の変遷」、巻末に「関係略年表」がある。


国民の政治的関心に驚く

 本書を読んでいてまず初めに特筆すべきインパクトを受けるのは、田中角栄にまつわる部分である。ブルドーザーのような行動力で知られる田中は、マスメディアと郵政省を掌握して首相の座に就いた。たしかにその部分もおもしろかったが、もっとも驚いたのは、田中が退陣したあとのエピソードから、当時の日本人が国家の政治に強い関心を持っていたのではないかと思ったところである。

 金脈問題のスキャンダルによって1974年に退陣した田中は、「闇将軍」として依然として政界に影を落としてきた。

ロッキード事件での逮捕後、田中は中間派や他派の議員たちをどんどん吸収して、一二〇名を超える巨大派閥をつくりあげていた。裁判によって政治的に抹殺されるかもしれないという恐怖が、その拡大意欲の源泉だったとされる。(p.163)

田中が退陣した何年もあとに首相になった中曽根康弘は、党の外にいながら強い影響を持つ田中との緊張関係の下にいた。しかし、1985年に田中が脳梗塞に倒れ、政治的影響力を失ったことによって、以下のようなことが起きたとある。

これによって中曽根も田中から解放される。国民も田中から自由になった中曽根を好感したのか内閣支持率も上昇し、特に都市部において四〇%以上の支持率を獲得しはじめる。(p.165)

 これは興味深い。というのも、本当に田中の影響力から解放されたことによって好感を持って支持した者が多くいたとすれば、それだけ国民が注意深く政局を見ていたことになるからである。たしかに、総理経験者(それもロッキード事件などで非常に注目された)が倒れるというのは大きく扱われたのかもしれないし、政局を知っていても政策で判断しなければ意味がないとも思われるかもしれない。とはいえ、自民党内の力学の変化によって支持が大きく増え、その後の総選挙でも大勝した、というほどの流れの変化は、現在で起こるかといわれたら少し考えにくい。これは田中角栄の知名度と影響力が大きかったということと同時に、国民が今より政治に関心を持っていたことを傍証しているとはいえないであろうか(そもそも、元首相の田中がこれだけ注目されていたこと自体からもそういえるかもしれない)。現在、自民党総裁選について「派閥とかよくわからん」という人がそこそこいる(私もすべては覚えていないが)のに比べて、当時の人々は政局や政党内外の力関係に相対的に詳しかったわけである。


「キャラクター」となっていく政治家

 時は下り、次第に投票率も徐々に下がっていったことからうかがえるように、国民の政治への関心が薄れていった。原因としては度重なる汚職と失言、55年体制の崩壊があるという。無党派層が急増したことも、それらの結果であるといえる(「支持なし」であるからといって皆が政治に関心がないとは限らないが)。

 一方で、政治に対する「熱狂」が戻ってきたこともあった。2001年に外務大臣に就任した田中眞紀子は、田中角栄の娘である。この時代は小泉純一郎政権の時代であった。この2人を中心に、政治に再び関心が集まった。

一方、総裁選以来、「政治」は国民の関心を呼び、テレビも「政治」を多くとりあげるようになった(二九八ページの表3参照)。なかでも、田中の強烈なキャラは女性を中心とするワイドショーの視聴者に共感されて視聴率を稼いだ。(p.285)

 しかし、この「政治」への関心は、20世紀のものとは違う。政治家のキャラクターやルックス、ドラマが注目され、ネタとして「消費」されるようになったのである。引用文の中にも「政治」と括弧つきで記されているが、それは本来の国家の政治(のあるべき姿)とは異なっていて、表面的に捉えられていることを象徴しているようである。

ニュースは、より視聴者目線のわかりやすく面白い、人間中心、キャラ中心のものへとなっていき、そのなかで、政治報道も政策をしっかり伝えるというよりも、視聴者の興味を引くもの(例えば、政治家の対立や失言など)を、わかりやすく感情を刺激しながら伝えるようになっていた。そのため「世論」に影響を与える報道自体が、視聴率という「世論」に(先に)影響されているという奇妙なループ、メディアが報じる視聴者が好みそうな話題に、国民があおられつつ回答した世論調査の数字が、再び「世論」としてニュースになるという再帰的な循環が回りはじめることになる。(p.301-302)

 現代の政治は、この延長線上にあるといってよいのではないか。現在の自民党総裁選をはじめ、重要な選挙の前の報道の中には、候補者の個人的な性質にスポットライトを当てているものも少なくない。「余暇の時間は何をしますか」といった趣味に関する質問があったり、本人が「暇つぶし」と位置付けているにもかかわらず候補者のTwitterの使い方が話題になったりする。選挙での投票先を選ぶ上でこれらが重要であるという立場はとれなくもないが、少なくとも政策との関係は薄い。そして、政策について問うてしても、本書でも指摘された〇か‪✕‬かの札を挙げさせるような、一面的な議論に誘導している。有権者が表面的でソフトなものを求めているためメディアもそれを流すという「奇妙なループ」にまさに当てはまっている。そして、また別の有権者はそうしたメディアに不信感を持ち、さらには政治自体に飽き飽きする者も出てきて、さらに政治の「消費」が深刻化していく。


ネットは政治とマスコミの関係を破壊するか?

 本書は最後に現代の部分に突入し、インターネットが議論に登場した。ここでは、橋下徹がTwitterでマスメディア(それも記者個人)を牽制することで「攻撃」し始めるなど、マスメディアの政治の報道の仕方に疑問を投げかける装置としてインターネットが活用された。

日本の政治ジャーナリズムが政策よりも政局を報じがちなことは古くから指摘されていたことであるが、二一世紀の政治ジャーナリズムは日本の最高指導者たる首相に瞬間芸(リアクション)を求めはじめていた。政治は苛立ちを強めていった。インターネットが登場してきたのは、そのような時代だった。そして、二〇〇〇年代に入るとソーシャルメディアの発達で、人々と同様に政治家も情報発信においてエンパワーメントされだす。そこで彼/彼女らが考えたのが、ネットを用いた国民への直接の発信、すなわちマスメディアのバイパスである。テレビでは伝えられない「真意」をネットを用いて直接伝えようとしたのである。(p.337)

インターネットの登場により、従来政策ではなく政局やさらには政治家のキャラクターや「瞬間芸」を写してきたマスメディアの表面的な「切り取り」の報道に対して懐疑的な目が向けられるようになったということは、実感としてわかる。

 とはいえ、インターネットには「真実」があるかと言われれば、それも肯定できない。マスメディアの絶対性を切り崩しているということはそうであると思われるが、ネットにも「切り取り」があふれている。『#リパブリック』でみたように[過去の感想ブログはこちら]、エコーチェンバーに陥ってる部分では、ある政治家に対しても一面的な評価しか下しておらず、しかもそれは政策に関係ないこともある。政治家の政策を評価しているアカウントも散見されるが、そうでないアカウントとの間に隔たりがあるようにもみえる。多様な言論が存在するインターネットでは、政策批評などの「真面目」な議論もある一方で、キャラクターを消費する態度や内容に関係なく所属組織のみで批判するような見方も存在するのである。そういう意味では、今までマスメディアで行われてきた政治への対峙が、幅を広げながらもネットで繰り返されている、というように感じられる(その意味でマスメディアは相対化した)。

 とすると、政治的に良好なメディアを築くには、結局は国民の政治に対する関心と知識が政策議論に到達していくのを待つしかないということになりそうである。そしてそれは政治と国民のコミュニケーションのできにかかってくるが、そこに良くも悪くも影響力があるのがメディアである。このように、議論はループしていく。メディアが文字通り「媒体」として機能する際、どのような内容をどの立場から伝えるか、時にはキャッチーに関心を引き付け、時には濃密な政策的議論を行うというバランスが取れるかが重要になってくるであろう。


おわりに

 「日本政治とメディア」の関係を記述する本の内容のメインが日本政治史そのものになるという状況それ自体から、政治にメディアが深く関わっていることがわかる。膨大なため本ブログでは詳しく述べることができなかったが、政治と(マス)メディアの対立と統制は、いつも日本政治を動かしてきたのである

 本書は全体を通して基本的な事項を踏まえて易しく、あるいは詳細に解説されているため、日本の政治史にそこまで詳しくない(私のような)人も簡単に読むことができると思われる。むしろ、自民党総裁選や衆議院議員選挙の前に、戦後の政治をさらっておきたいというような人が読むべきであるといえよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?