#227 日本のいちばん長い日

今日から78年前。1945年の8月14日正午から8月15日正午にかけての一日は、「日本の一番長い日」と語り継がれている。

日本は、8月6日の広島の原爆投下、9日のソ連の対日参戦と長崎の原爆投下を受け、10日未明に御前会議が開かれた。御前会議は本土決戦と和平で意見が真っ二つに分かれ、最終的に鈴木貫太郎首相が昭和天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にしたことでポツダム宣言の受諾が決定した。

10日午前8時に海外に向けてポツダム宣言受諾の意思があることを表明した。この時、国民や軍隊にはポツダム宣言の受諾決定は知らされておらず、戦争は変わらず継続されていた。

12日未明にアメリカが回答を行った。回答の中に、降伏後は天皇や政府が連合国軍従属するという表現があったことから、国体護持を確保するべきか無条件降伏下で再度議論が沸騰することになる。

14日午前11時から開かれた御前会議では、阿南陸相らが戦争継続を主張したが、天皇が涙ながらに終戦を訴えたことで、ポツダム宣言の受諾が最終決定された。「日本のいちばんながい日」の始まりである。

翌日正午に天皇自らの声をラジオで放送することが決定し、14日深夜、玉音放送が皇居内で録音された。録音が深夜になったのは、放送の文言一言一句について閣僚の中で議論が行われたためだと言われている。玉音放送が録音されたテープは「玉音盤」と呼ばれ、現在もNHKに保管されている。

15日未明、一部の陸軍将校らにより、玉音放送を阻止し、本土決戦を求めるクーデターが発生する。首謀者の一人である畑中健二少佐は、近衛第1師団長だった森赳(もりたけし)陸軍中将を殺害。森の命令を偽装し、近衛師団を動かして宮中を制圧するも、玉音盤の奪取には失敗。命令の偽装が明らかになると反乱は鎮圧され、首謀者の一部は皇居内で自殺した。

クーデターが起きる中、阿南惟幾(あなみこれちか)陸相は15日早朝に陸相官邸で割腹自殺をしている。陸軍の象徴とも言える阿南の自決は陸軍内に大きな衝撃を与え、本土決戦や戦争の継続を求める声は収束していったという。

15日正午、玉音放送は予定通り放送され、多くの国民が天皇の声を初めて耳にするとともに、日本の降伏を知ることとなった。玉音放送をもって、「日本のいちばん長い日」が終わりを告げた。

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