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社会の広告屋のメガホンch〜ソーシャルアクティビストの生き様ドキュメンタリー「ただ排泄しているだけの肉塊だと思っていた/20年間のひきこもり生活」林恭子さん(ひきこもりUX会議)書き起こし

◆この記事は、こちらの動画の書き起こし記事となります。

誰もが生きやすい社会のために
いろんな生きづらさがつながれる場をつくりたい

ひきこもりUX会議 代表理事
 林恭子さん
聞き手:山田英治(社会の広告社)

林さん)
林恭子と申します。不登校やひきこもりについて当事者たちの声を多くの方に届けることや、支援のあり方をもう少し当事者のニーズに合ったものにしてほしいなと思って今の活動をしていて私は今幾つかの団体に所属して活動はしているのですけれども一番大きくやっているのがひきこもりUX会議という団体です。

山田)
林さん自身が今ひきこもり当事者の支援に関われていますけど、ひきこもり経験があるということだと思うのですが、どういった経緯でどのくらいひきこもられていたのでしょうか?

林さん)私は16歳で不登校になりましてそこから状態としてはひきこもり始めるんですけれども、その後30代の後半まで約20年間ひきこもったり、
ちょっと出たり、またひきこもったりという感じで断続的にまる20年 ひきこもり続けたという経験があります。

山田)きっかけとしては?

林さん)最初の不登校は後で分かったことなのですけど、当時は分からなかったのですが私の場合には管理教育と言いますかね、学校の中でのとても厳しい校則とかそれから先生の体罰とかそういったところに強い違和感を感じていて、学校自体は楽しいと思って行っていたタイプだったけれども、そういう違和感が私の場合は体の方に出たっていうのが、最初の不登校だったかなと思いますね。

もう一つはやっぱり親子関係と言いますかね、母との関係がちょっとうちは少し問題があるかな、ということに気付いたっていうようなところも、原因の一つかなとは思います。

高校2年生のゴールデンウィーク明けだったんですけれども、何となく体がだるくて測ると微熱があって、で、そのうちにもう頭痛、吐き気、胃痛、食べられない、寝られない、起きられないという。体重も10キロぐらい落ちましたしね。

かなり体調が悪いと言いますか。何か病気になったのかなと思うぐらいな状態になったというのが最初ですね。

その20年間、私は本当に昼夜逆転をしていたので、起きるのが大体午後1時から2時くらいで、寝るのはもう明け方なんですよね。

ですから、まず起きるともうお昼過ぎている訳ですよね。でも起きてきて午後2時3時にちょっと果物を食べるぐらいして部屋に戻って横になるか、本を読むか、ちょっとテレビを見るか。

でもう、あっという間に夜中になりますから、夜中になって、やることは本当になかったですからね。やっぱりちょっと書き物をしたり本を読んだりしているともうすぐに明け方になる。意外と何もしてないんですけどあっという間なのですよね

起きている間じゅう自分を責めている状況なので、どうしてこんなことになってしまったのだろうかとか自分の何がいけなかったのだろうとか、この先どうやって生きていったらいいのだろうとか、生きている価値など、もう1ミリもないというようなそういう声から逃れられないので。

当時私、昼夜逆転していたって言いましたけど睡眠時間13時間とか14時間とかだったんですよ。寝られちゃうんですよね。で、それ後に『寝逃げ』っていうって聞いたんですね。当事者の人達から。寝ればそういった声から逃れられるので。目が覚めてしまうと、そういった自分を責めなくてはいけない現実しかないのでひたすら寝てたっていう。

多少は食べ物は食べてましたから食べ物を口に入れますよね、どうしても排泄はしますね、生き物ですから。 でも自分がやっていることはそれだけだ、つまりそれをやるだけの肉の塊だと思っていました。

肉の塊であること事実ですからね。生きている意味とかもう人じゃないってことですよね、人だとも思えない自分のことを、生きている意味も価値ももう何もないっていう。

ただ心臓が動いているから生きている、死んでいるか生きているかって言ったら、生きているよねっていうぐらいのものだっていうことですよね。

山田)そういった毎日が20年間、ずっとその思いはあった?

林さん)うんうん、本とか読んでこう多少ちょっと自分が別世界に行く瞬間もあっても、常に。

山田)その思いがあるみたいな感じなのですか?

林さん)27の時に初めて、もうこれ以上無理だからやっぱりもう死ぬしかないって思った時期があったんですけれども。27ですから不登校が16ですからね、もう11年たっているわけじゃないですか。その11年間はどんどんどんどん状態が悪くなっていったんですよ。そして、その底をついたのが27だったと思うんですね。

そこからさらに30代の半ばまでは断続的にひきこもって、ちょっとバイトをしていて要するに、その底をついてからはちょっとずつ生きるっていう方向に向かってはいたのですけれども、

生きていていいよね、こんな自分でもって思えるようになるには
更にプラス10年かかったってことなのですよね。

ですからやはり、生きようっていう風に決めた訳じゃないですけど、そっちに向かっていこうと思ったからといって何も問題は解決していませんから
「やっぱりもうダメかもしれない」というのはやっぱり相当長く続きましたよね。

山田)20代の後半に差し掛かって死にたいというお気持ちがあったっていうのはどんな感じなのですか?

林さん)ちょっと丁寧に言うと死にたいというよりは死にたくはないんだけれども、私の生きていける場所は、もうこの社会にはないからならば死ぬしかないじゃないか、仕方がないんだっていう気持ちでしたね。

ですから積極的に欲求として死にたいっていうよりは自分の手で終わりにするしかないんだっていうところまで追い詰められたっていう感覚ですよね。

山田)そこから少し、こう何て言うのでしょう、そういった意識から変わっていったっていうのはきっかけがどういうところなのでしょう?

林さん)それはやっぱり、その思いを抱えたまま数カ月過ごした果てに
その生きる意味とか、よくこれ今でも活動していても当事者の人から聞きますけど何の役にも立たないとかね、今特に社会では生産性っていう言葉も
随分広がったように、何かこう人の役にとか社会の役に立たない自分は駄目なんだとか何かそういうのが凄く蔓延しているような気がするんですよね。

本来人って、何の役に立たなくたって生きていていいに決まっているじゃないですか。どんな人だって。それで私はもう多分子供の頃から(思っていたことで)例えば身体が不自由になった老人とか、例えば身体に障害を持っている方とか、色んなことができる、できないで言うとできないことも多いわけじゃないですか。

じゃその人達は生きていちゃいけないのか、子どももそうですよね、小さい子ども。

それでも、おかしいなっていうのはやっぱり思っていたんですね。そういう気持ちは多分あったと思います、昔からね。

自分がそういう状況になった時に、もう別にただ生きているだけでいいじゃないかっていうところに達したんですよね。その「死」を考えていた時に。

だからもう私は何の役にも立たなくても生きている意味とかが見つからなくてもいつか死っていうのは来るんだから、自分で起こさなくてもね。絶対来るわけじゃないですか。だったら与えられた生というものを、その日までもうただ生きようっていう風に思ったんですよね。

死にたくはないけれども、死ぬしかないんだという風に思って、具体的な手段とかも考えていたんですよ。それこそ山の方に行こうかとかね。人に迷惑をかけないように死ぬにはどうしたらいいかとか。

でもそのうちにある日ふっとこう目の前に映像のように私たまにそういうことがあるんですけど浮かんだんですよね。

その映像が私の足のつま先が揃っていてそのつま先の前に「生」と「死」って2本の道があって足のつま先だけがちょっとだけ「生」の方にちょっと向いてたんですよね。

あ これ何だろうと思ってずっとその映像見てたんですよね。 足しか見えないんですよ、つま先しか。でもつま先って身体じゃないですか。

それでその時、私は思考とか思いではもう死ぬんだってことを結構強く決めているんですけど身体ってまたちょっと別ですよね、思考とか思いとかと。

それで、その身体は「生」の方に向いているってことは私の意志とかとは関係なくこの身体は「生きよう」って思っているというか、生きようとしているのかなって思ったんですよね。

その時私の心臓はまだ動いているわけじゃないですか。でこんなダメな自分でぼろぼろなのに心臓って片時も止まることなく鼓動をね、こう続けているのが何かちょっと健気な気もしたんですよね。

そしたら自分の自分が生きるとか死ぬってことを今自分で決められるようなことを思っているけどちょっとそれは傲慢かもしれないなって。

与えられた「生」をいつか終わる時まで全うするって言うかね、この身体をそこまでたどり着かせるって言うかな、それさえできればもういいんじゃないかなって思ったんですよ。

山田)それは夢ですか。それとも白昼夢というか?

林さん)夢じゃないことは確かですね。そうですね、たまにあるんですよ。ぱっとこう映像が浮かぶことが。それからだいぶ経って30代。それこそひきこもりが終わりかける頃なのですけれども、それもある時ふっと映像が浮かんで私が船の舵をこう握っているんですよ。それだけが見えたんです。

私は自分の船の舵を取り戻したって思ったんですね。これまで私は自分の船なのにこの舵を母や他の大人や、場合によっては学校の先生だったりもするのかな、とにかく自分以外の人たちにこの舵を手渡していたんですよ。

だけど今、私は自分に取り戻した。これから先自分の船は小さいしこれから大海原に出ていくわけですよね、社会という。ものすごく怖いわけですよ。嵐も来るでしょうし。

でももうどんなことがあっても二度とこの舵を人の手には渡さないって、その時思ったんですよね。

だからそれが多分私にとって自分を取り戻した瞬間だったんじゃないかなと思うんですね。多分それが33歳ぐらいだったと思うんですよ。それで私はその20年のひきこもりから自分を取り戻したと思えたのが36でしたから、やっぱりそれから3年後ぐらいに本当の意味で舵を握ったまま海へ出ていったのかなって思うんですよね。

山田)その舵の映像が見えた時というのは林さんが社会に参加するきっかけとして居場所に繋がるってことと(精神科の)いい先生に出会えたことと、
以前はおっしゃっていたと思うんですけどその出会いの後ですか、今のお話は。

林さん)全然あとですね。 4 、5年後だと思います。

山田)やっぱりこう出会うだけではなくてそこからまた長い時間が?

林さん)私が8人目の先生と出会ってからそこにたどり着くまでに多分5年ぐらいは掛かっていますので。それまでがあまりにもやっぱり長く状況が悪い状態があり、相当のマイナスからの出発ですからね。だから0までたどり着くまでに相当時間がかかりましたよね。

山田)8人目の先生っていうのは今までの精神科の先生と何が違って良かったんでしょうかね。

林さん)いろいろあるんですけれども一番大きかったのは本当に私の言っていることをこの人が理解しているなっていうことが分かったってことなのですよね。 

どの先生もやっぱり基本的にカウンセラーさんとか精神科医なので否定はしないんですよね、一切。傾聴と言いますけど。

今までその先生が私を理解してるかどうかっていうのは私ちょっとやっぱり確信が持てなかったんですよね。でもその8人目の先生は私の言っていることを本当にちゃんと理解しているし、かつそれが間違ってないっていう時は本当に間違ってないと思っているなっていうことが分かったし、その後その先生自体が、私と同じようなとは言いませんけれども、そういう生き方をしている人だったんですよね。ただのいわゆる支援者じゃないんですよ。先生自体がやっぱり社会を変えていくことで、より良い社会を作っていくみたいな、そういう思いがあって、今はたまたま精神科医という役割の先生をされているんだと思っている。職業としてただやっているとかじゃないということだったのじゃないかなと思います。 

8人目の精神科の先生と仲間と出会えたことで自分を取り戻していった

山田)同じ境遇の仲間たちとの出会いが自分を取り戻すきっかけになったっておっしゃっていましたけど、どういうところで仲間と出会ったんでしょうか?

林さん)1999年なんですけれども、当時都内であったひきこもりについて考える会というのがあって、そこを偶然私は知ったんですね。そして、そこに行ってみたんですよね。

そうしたところは、やっぱり当時男性の方が多かったのですが今で言う当事者の方たちがたくさん来ていて、同時期に東京でも当事者会がやっぱりできてて多い時には80人くらい人が集まるような状況だったんですよね。

でもそういったところを含めて同じ経験をした人たちと本当に実際に会って
そしてファミレスに行ってみんなで話したり遊びに行ったりする中で本当に似たような経験をした人が多かったし、ひきこもっている時の苦しさであったり例えば親子関係だったり社会との違和感、ズレを感じるみたいな。

そういうのってやっぱり本当に分かってもらえなかったので、周りの誰にも
分かってもらえないってこともみんな同じだったんですよね。

だからやっぱりその一人じゃなかったっていうこと、仲間がいたんだっていうことは、そうとう大きな勇気になりましたよね。

ですから私にとってはその8人目の精神科の先生と出会って、自分の何て言うのかな精神的な部分と心の中をもう一度その当時の私のイメージだと瓦礫の状態で操り人形が崩れているみたいな状態なんです、自分が。そこから瓦礫を片付けて立ち上がってもう一度歩いて行く道を作るみたいな作業を先生とやり、一方で仲間と出会えたという喜びこの両輪があって私はその回復に向かったっていうことが、回復っていうよりか取り戻していったと思っているのでどっちかがなくてもダメだったと思うんですね。

山田)今、林さんはひきこもりUX会議で全国で講演されたり
居場所作りの支援というかそういうこともされているんですよね。

林さん)はい 、そうですね。

山田)やっぱりそういった経験があるからそれを今つらい思いをしているひきこもり当事者の方にももっと伝えて、もっと仲間と繋がろうみたいな
そういった意図があって全国を回っていらっしゃるのでしょうか?

林さん)講演会と居場所事業って別なんですよね。講演会は支援者や親御さん向けにお話することが、今日もそうですけれども多いんですよね。 

それはやはりご家族や支援者の方にひきこもりの状態とか気持ちっていうものをある程度理解をしていただいて、接し方であったり支援の仕方っていうのを変えていってもらうということが目的として大きいかなと思います。

そして一方で、事業としてやっている居場所づくりというのはやっぱり
当事者や経験者の方にまずは仲間と出会ってもらったり必ずしも仲間を作らなくてもその時間は誰にも否定されたり批判されたりしないで安心していられる場っていうところ、家以外のですね。そういうところを仮にいっときでも作ってそこに出てきてくれる人がいればそれでいいし出て来たくないって
人もいっぱいいますからね。

それはそれでいいんですよね。だけど選択肢がないってことが
私は一番良くないことだと思っているので、私たちができることは本当に限られていますけども、少なくとも1個2個3個ちょっとずつ選択肢を増やしていくことによってそこが何らかのきっかけになればいいし
ならなくてもいいかなとも思いますけどね。
そんな感じですね。

いろんな「生きづらさ」が緩む「スキマ」を作りたい

山田)これからUX会議を通してなのかあるいはそれ以外かもしれないですけど今後やってみたいこととか、やるべきことだと思っている
ミッションというかそのあたりどうでしょうか?

林さん)何か実はその活動を始めた当初からUX会議の柱でもありますけれども、もう少し多くの人が生きづらさのない社会って言うかね、特にマイノリティの人たちってことにもなるんでしょうけれども、もう少し生きやすい社会とかそれこそ自分の人生を自分でこう選べるような社会になっていったらいいと思うし、特に今若い世代の人たちを見ていても何かこうすべきとか自己責任もそうですし、まあ自由にやっている人もいるでしょうけど
すごく窮屈そうだなっていうようなイメージもあるんですよね。

誰もが生きづらいって言われているような社会になってしまっていますから
当然働いている人だって、学校に行っていたってしんどい人はいっぱいいると思うんですよね。 

でもその時に、俺の方が辛いとか私はもっと大変なんだっていうことを言い合っていてもあんまり未来を開けないような気がしてそれは当然彼らのせいではなくて、そういう社会を作ってきた我々大人たちの責任でもあるわけですからひきこもりや不登校に限らずもしちょっとでも「生きづらさ」が
「ゆるむ場」が作れるのであればそういったことに携わっていきたいなとは思っています。

私「スキマ」を作りたいんですよ。「スキマ」がなくなってる気がするんです、ずっとこの何十年、社会の中に。「スキマ」がないと息苦しいんですよ。全部がピチッってなってったら隠れる所とかいたずらだってしたいじゃないですか。

いつかひきこもりUX会議から「ひきこもり」をとろうという話は
団体の開設当初からあるんですよ。というのはやっぱりこれまで特に
マイノリティって言われるような当事者活動している人たちって
それぞれにやっているんですよ。 

だけどやっぱり「生きづらさ」ってところは共通しているから何かゆるくでいいんですけど、もうちょっと繋がってね、いろんな生きづらさを抱えた人たちが可視化されて一度にかつオシャレな感じでフェスみたいな感じで。

それこそ例えば性的マイノリティの方とか私の知り合いで「見た目問題」をやっている方とかそういうのでこうみんなでその生きづらい社会をもうちょっと良くしていくということは誰にでもできる、日々の生活の中で。

そういうのを逆に言うと生きづらさのない人も含めて何かそういうのがあったらいいと思うのですね。

林さんの今回の動画をご覧になりたい方はコチラから!

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