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「皆が見ている」「皆が言える」は、世界に対してどこまで本当で有効なのか。

とうとう、目に見える形での武力の行使がまたひとつ始まってしまいましたね。パンデミック以降、それが終わる前に必ずこういう日がくるとは思っていました。実質上はすでに世の中は第三次世界大戦のような大変な緊張状態になっていましたが、それでも、目に見える形での武力行使が始まるとそれを口火に始まることも多い気がします。せめて、自分は自分を見失わずに過ごしたいと思います。せめて、数十年前の世界ならとっくに世界中が武力を用いたはずがここまでもったことを進化と思う方がいいのかもしれません。

それにしても、なぜ、公に人が人を殺めるようなことが何らかの決まりで誰かが誰かに指示したりするのでしょうか。しかも、おそらくはその指示している側のひとは多くの人から選ばれた、大変優秀で、つまりは大変努力もしてきた、そして、その国や組織の多くの人よりも、もっとたくさんのことを知っている人が、それを指示した、ということになります。
また、その指示を受けて実行するものも、多くの場合は大変に訓練を繰り返して、それをおこなったり身に着ける高い知能を有していて、さまざまな認識や判断の能力を高度に持っている者、のはずです。
ならば、その指示も実行も、「憎いから」「腹立たしい」「嫌い」のような単純なものであるはずがありません。

そして、恐ろしいことに(これは私の多くのルーツもある大好きな日本に対しても思うことなのですが)、正当な選挙制度が稼働しているならば、その指導者も、運営組織も、軍隊も、つまりはその判断や行いをする者たちを選んでいるのは、その国の国民です。その国の国民の程度や傾向以上の政府はあり得ません。
その意味で、政治家や政府を馬鹿だなんだという人たちは、それはつまり自分の程度について言っているも同然だとも思います。

ですが、誰も「痛い」「破壊」「死」のようなことはのぞんでいないはずです。ですが、その判断は時折行われ、実施されます。それが現在、私たちの住むこの世界のどこかでまた新たにひとつ発生しました。
誰も望まないことのはずなのに、相当物事を考える能力があり、相当様々なことを知っているはずの人がそれを行うと判断した。

つまりは、自然なひととしての感覚や身体感とは違う、言語や数字で構成して積み上げることができるなにかが、「行うべき」と行き着いたのだと思います。ならば、それを終えるときは二種類しかありません。ひとつは、その理屈が満足したとき。もうひとつは、理屈自体も消し去るほどの現実が押し寄せた時、です。前者は勝者によくある判定でしょうし、後者は敗者によくある結果かと思います。

ならば、その参加者が自ら終えるのではなく、誰かに「終わらせてもらう」ときはどうでしょう。おそらくこれも、勝者になる側は自らの理屈を満足できればやめるのだと思います。相当ロジカルです。ですが、敗者になる側は「そろそろこれくらいにしておかないとだよ(後が大変だよ)」のニュアンスを伝えられて、やめ時を探す、ということがあるかと思います。ここは大きく違います。

そこには、「知る」「認識する」「皆が」「誰が」「これから」などが大きく関わります。勝者の側も、現在の時間の理屈のみで満足するような浅い考え方はしないはずです。先の時間も含めた満足を探すならば、その意味では敗者と同じです。勝者に見えても、翌日敗者になる可能性もあるのです。

知る。ということ。
湾岸戦争のときならばCNNがその代表格でしたが、その後も戦争状態になるとメディアの役目がよく取り沙汰されますし、それは技術の進歩とともにどんどん新たな形になってきていると思います。情報通信と戦争は、当事者も周辺も、軍隊もそうでない者も、切っても切れない関係にあります。そういえば古い漫画ですが、当時相当話題になって外国語版もある「沈黙の艦隊」では、世界投票、のシーンが描かれます。

特に、この十年で皆の手元に相当行き渡った、常時高速回線がつながっている強力なメディア機器とインフラ、そしてなにより、それを用いることにおいて気持ちを少し進化させた人類が注視するなかで始まった今回のことは、その後どうなるか、あるいは全く変わらなかったか、もしかするとそんなもの全ては空虚であったとわかるのか。
全ては、画面の向こうや回線の向こうのことではなく、私も、あなたも、この社会の一員であるなら、全員が当事者です。

当事者として、ありたい自分を忘れず過ごしていこうと思います。


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