一首評×2&気付き

枇杷の花散りてかそけき気配ある地に月さす冬あたたかし
/馬場あき子(1985)『葡萄唐草』立風書房(「地」にルビ「つち」)

文語をうまくよめないので盛大に誤解している可能性が恐ろしいのだけど、結句ですべてを覆す歌だと思う。
「散り」「かそけき」「地(つち)」「月」ときて駄目押しで「冬」。いずれも冷たいイメージを持つ言葉だが、「あたたかし」でまとめる。すると散った枇杷の花びら、それがポツポツと落ちている地面、それを照らす月光、といったものにほのかな体温が宿る。
「冬あたたかし」という一句は端的に言って矛盾とか撞着話法に近いものを感じる。しかし、その前にあるものが「あたたか」さを孕みうる。それで単なる矛盾ではないイメージの逆転が成功していると思う。
まあ、単に暖かい冬だったのを一場面とともに言い表したのかもしれないけど、ここは出された言葉を味わいたい。

玄関のドアをひらけば吹いてくる風のことです春というのは
/千原こはぎ(2018)『ちるとしふと』書肆侃侃房

こちらも結句でひっくり返す歌。
ひっくり返すというより、四句までの内容に答えを与えるとか裏付けするとか言ったほうが近いかもしれない。
四句目まではなんのこと? という感じではあるが、結句でそれこそ春と示されることで改めて噛み締め直し、納得することができる。それを春なのだと言い切るところには論理を超えた飛躍があるが、玄関を開けて吹き込む風(、もしかするとその匂いや暖かさ)に春を感じるというのは実感として理解しやすい。だから無理なく飛躍できる。
風のどの部分とは明示せず、ドアを開けて風が吹き込む場面を想像させるところに負荷がある。負荷はかかるが、読者自身で場面を想定することで記憶の中にある実感が想起される。うまくいけば言葉で事細かに指示されるより真に迫る追体験を得られる。言わば読者自身によるジャンプが大きな鍵であるように思う。


いずれも四句までを伏線として、結句の作用でオセロをひっくり返すような作りが特徴的だ。縁語や季節感を利用しつつある要素を持つ言葉を連ね、最後に逆の要素で塗り替える。もちろんまったく納得できない塗り替えではいけない。あるいは事物や場面を描き、最後に名前を付ける。読者の記憶や実感に訴えるとより飛躍が高まる。どちらも意外性を武器にしつつ、読者をただ裏切らず手がかりを与えておくことが必要らしい。
似た構造で、最後にカメラを寄せたり引いたりという手法は自分もたまに使えていたけど、今度からは意図的に使えるかもしれない。練習!

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