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水の子 1863年 キングスレイ~読書記録244~

イギリスの牧師 チャールズ・キングスレイによる子ども向けのおとぎ話・ファンタジー小説。
19世紀の児童文学で最も知られている作品の一つである。 1862年から1863年に『マクミラン』誌に連載され、1863年に出版された。



主人公は煤だらけの煙突掃除の少年・トム。施工先でエリーという名前の上流階級の美少女に遭遇し、彼女の家から追い払われ、川に落ちる。そこで彼は溺れ、「水の赤ちゃん」に変身する。そして、トビケラが彼の道徳教育を始める。

物語のテーマはキリスト教の「償還」、貧乏人へのイギリス国家の仕打ち、児童労働など。
トムは冒険し、自分自身が道徳的な生き物であることを証明し、他の水の赤ちゃんのコミュニティーで楽しむ。


牧師である著者が息子に語ってきかせると言う書き方がとられている。
キリスト教的な教訓だけではなしに、19世紀イギリスの実態がよくわかる話でもあった。
21世紀の日本や英米などで格差社会を言う人もいるが、当時の世界ほどではなかったろう。
人は生まれる環境を選べないのに、最初から虐げられる子供に、何もせずに楽に生きられる子供と。
お邸でお姫様のような暮らしをしている子供がいる一方、。トムのように学校にも行かず、朝から晩まで働かされ、殴られていた子供が沢山いたのだ。
この時代、それはそれで当然、仕方のないことと思う人ばかりだった。
作者のキングスレイは、貧しい子供が虐げられるのを当然と思わなかった。
せめて、物語の中だけでも幸福になって欲しいと思って書いたのが「水の子」なのだ。

もちろん、主人公トムは、宗教的な面から観ると悪い子で罪深いのだろうが、それがトムのせいとばかりは言えないだろう。
だが、作者キンドレイ牧師は「自分自身の力で成長する」事を、上手く書いている。

日本語の訳者は、明治生まれの英文学者で翻訳家の阿部知二先生だ。
昭和6年にに本書を日本に紹介した。
私が読んだ改版では、長男でフランス文学者・東京大学名誉教授の阿部良雄先生が解説をされている。

このあとがきを書いている私は昭和7年の生まれですが、父の知二が若い頃に訳して昭和6年に初めて本になったこの童話を、子供の頃、繰り返し、繰り返し読んで飽きなかった。(解説より)

自分の父親が訳した童話を読む子供時代。その情景が浮かび、微笑ましい。

昭和6年の頃の訳がわかりにくいので、息子の良雄先生が全面的に手を加えた。そんな本なのである。

昭和6年に発行されたものは、もはや手に入らないだろうから何とも言えないのだが、昔、翻訳家の先駆けとなった方たちに本当に感謝したい。
例えば、イセエビと訳されている場面があるのだが、イギリスにはイセエビはいないので、ロブスターだろうか?
司祭を坊主と訳されていたり。
外国の本を日本に紹介する時の苦労がわかる。

よく、村岡花子氏や、内藤濯(星の王子さまの訳者)の訳を間違っている、意訳と若い翻訳家たちが批判するが、明治生まれの方々が外国語を学ぶのは大変だったのではないだろうか。
今は、多くの本、辞書がある。ネット検索もGoogle翻訳機能もある。
だから私は、敬意を表したい。


宗教学者の島薗進先生は、この物語を「自由と責任を学ぶ途」と銘打っている。
この物語は、子供が大人に成長していく過程で自己の弱さを自覚し、それと向き合う生き方を学んでいく、個人の成長物語だ。(本書より)

トムの体に生えた棘は何を表しているのだろうか。トムは両親のいない子供として描かれており、親から愛情を持って躾けられる事もなかった。その代わりに、たくましさを身に着けていった。
物語は、そういう自然児であるトムが導きの存在に支えられながら、社会のルールや人間としての道徳を学んでいくという筋書きだ。そこに爽やかさはあるが、社会から見捨てられてきたこと、親の愛に包まれていないことの痛みは常につきまとう。それがトムの弱さである。
その痛みはどうすれば克服できるのか。それは「親切なおばさん」の愛によってだけではなく、人間同士の深い親しみによって克服されなければならない。(本書より)

「善を行い、幸せになる」という道徳的教訓の物語なのだ。

持続する愛を知る事、信じることこそが道徳的成長の条件ということにもなるだろう。弱さに向き合うというのは、自分を超えた命の恵みのありがたさを知るということである。(本書より)


この物語から、子供の頃に、親が子に与える本の大切さを本当に思うのであった。
今、色々なネットで炎上させている人たちは、どのような子供時代を過ごしていたのだろうか。アンデルセン、宮沢賢治などを読んだのであろうか。
小さい頃に学ばなければ遅い事もあるのではないかとも思うのであった。




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