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その広さに圧倒 鎌倉市 臨済宗建長寺派大本山建長寺 私の百寺巡礼170

建長寺は鎌倉幕府第5代執権・北条時頼により創建された禅宗寺院で、建長5年(1253年)に落慶供養が営まれている。開山(初代住職)は南宋からの渡来僧・蘭渓道隆(大覚禅師)であった。当時の日本は、承久の乱1221年)を経て北条氏の権力基盤が安定していた。京都にある朝廷の全国支配力は弱まり、政治的には鎌倉が事実上、日本の首府となっていた時代であった。北条時頼は熱心な仏教信者であり、禅宗に深く帰依していた。
創建の時期については、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には建長3年(1251年)から造営が始められ、同5年(1253年)に落慶供養が行われたとある。造営開始時期については建長元年(1249年)ないし2年からとする異説もあるが、おおむね建長元年(1249年)頃から造営の準備がなされ、同5年(1253年)に完成したとされる。建長寺が所在する山ノ内は、幕府のある鎌倉の中心部からは山一つ隔てた所に位置し、鎌倉の北の出入口の護りに当たる要衝の地であって、北条氏の本拠地でもあった。建長寺の境内が広がる谷(鎌倉では「やつ」と読む)は、元は「地獄ヶ谷」と呼ばれる処刑場で、地蔵菩薩を本尊とする伽羅陀山心平寺という寺が建っていた。建長寺の本尊が禅宗寺院の本尊として一般的な釈迦如来ではなく地蔵菩薩であるのは、こうした因縁によるものである。また、心平寺の旧本尊と伝える地蔵菩薩像は今も建長寺に伝来している。



鎌倉は近くて遠い。横浜からすぐなのになかなか行けない。
五木寛之先生の真似をしてしまった。
うちから鎌倉なんて乗換なしですぐなのに、観光客の多さにひるんでしまうのだ。実は私は人混みは苦手だ。
今回、建長寺は開門と同時に入ったのでそれほど混みもせず、のんびりと廻れ楽しめたと思う。

やたらと写真が多くて申し訳ありません。
とにかく広い!そして、見所がありすぎだ。敷地内には末寺もあるというのに、大本山だけでもこんなに広いのか。とにかくその広さ、鎌倉時代からの歴史を感じる旧さに感激してしまった。
空襲の範囲から外してくれた米英軍には感謝しかない。

と、ここで、五木寛之先生の本から引用したい。



建長寺の正式な名称は、山門の額に書かれていたように、「巨福山建長興国禅寺」という。鎌倉五山第1位に列した臨済宗建長寺派の大本山である。
インドに生まれた禅は、まず中国に渡り、次に海を越えて日本へ辿り着き、この鎌倉の建長寺に根付いた。もし、この伝播の道筋を「禅ロード」と名付けるならば、その終点がこの建長寺ではないか。と宗務総長の高井俊氏は説明された。
禅ロードの終点である建長寺から、今度は日本の禅ロードが始まる。
そして、その建長寺は、蘭渓道隆と北条時頼の絆によって生まれたといってよいのではないだろうか。
道隆は、中国西蜀(せいしょく・四川省)に生まれ、13歳の時に出家した。修行のために諸国を巡回し、禅の修行を続けて悟りを開いたが。一か所に留まっているよりも、遊学を好む傾向があったらしい。
その頃の中国、南宋には多くの日本人留学生が学んでいた。そのうちの1人。京都泉涌寺の月翁智鏡と会って、道隆は日本へ行く決心をする。それは、禅が広がりつつあった日本に対して、強い興味を抱いたからだとされている。
寛元4年(1246年)、道隆は、弟子の義翁紹仁らと商船に乗って筑前博多に到着した。33歳だった。
博多から京都に入った道隆は、大陸で出会った月翁智鏡を頼って、まず泉涌寺に身を寄せた。そして、智鏡の勧めもあって、やがて鎌倉に向かうことになる。
当時の京都には、栄西が幕府を後ろ盾にして建てた建仁寺や、九条家が建立した東福寺などの禅寺があったが、いずれも密教と兼ねており、禅をあまり表に出していなかったようだ。そうすることで、保守的なこれまでの仏教勢力との共存をはかっていたのだろう。
けれども、道隆が理想とする禅は、純粋に禅だけを信仰する純粋禅である。既存の寺院勢力が強い京都では受け入れられにくい。そこで、京都ではなく、武士が作り上げた新天地、鎌倉に向かったのだ。
その鎌倉では、既に栄西によって臨済宗が紹介されていたが、広まってはいなかった。道隆はまず栄西の開いた寿福寺に赴き、教化活動を行った。
一方、北条時頼は、兄経時のあとを受けて鎌倉幕府の第五代執権に就いた。ちょうど道隆が博多に着いた寛元4年(1246年)、19歳のことである。この政権交代の時、不満分子によって謀略事件が引き起こされた。
この頃、時頼が初めて接見した禅僧が。栄西の弟子道元だったようだ。道元は永平寺建立のために土地を寄進した武将、波多野義重らの招きで鎌倉へ赴いていたらしい。
道元はしばらく鎌倉にとどまって教化に努めていた。そこで時頼は、寺院を作って道元を開山に迎えようとした。しかし、権勢に近づくのを好まない道元は、「越州の小院も旦那あり」として辞退したという。
名僧をいただいて大僧院を営むという時よりのもくろみは、ここでいったん頓挫してしまった。失意にあった時頼に再び希望を抱かせたのが蘭渓道隆だ。道元から断られた後、どういういきさつかはわからないが、2人は出逢った。
道隆に会った時頼は、建長元年(1249年)12月、常楽寺という寺に道隆を招いて住まわせることにした。この時、中国風の純粋禅に興味を持った多くの僧侶が「常楽寺に一百の来僧あり」というように、道隆のもとに集まるようになったらしい。
こうして、宋の純粋な禅が初めて鎌倉に定着し、寿福寺を中心とする密教と兼ねた禅は次第に影をひそめていった。
時頼が建長寺を創建し、蘭渓道隆を開山に迎えたのは建長5年(1253年)のことだった。以後、鎌倉は、禅宗流行の中心となっていく。
時頼自身も、次第に禅への信仰を深め、折に触れて道隆の教えを受けるようになったようだ。
建長寺創建から3年後、時頼は西明寺という寺で出家した。執権職も北条長時に譲っている。
「おのれは、今まで我欲や名利のためには何回となく命をはってきたが、仏法のためにはまだ捨て身の心を起こしていなかった。今夕こそ、それを恥じと感じたことはない。だから、1人で遠出するという身の危険もかえりみず、こうして参じた次第である。思えば、自分は誤って征夷の権をとってしまったため、いつも兢々の思いに襲われ、薄氷を踏む心地で生きているのです」
時頼の正直な言葉には心を打たれる。名実と共に権力を握り、「養民の心は山の固きが如し」と道隆に讃えられた時頼も、心の奥では、常に思い悩み、動揺し、何かにすがりたい心境だったのかもしれない。その支えとして禅があったというならば、鎌倉のこの指導者の孤独をわずかながら想像することができそうだ。

臨済宗では、個人個人で禅を修行するように教える。ただし、必ずしも出家を求めるのではなく、ただ座禅を勧め、或いは、ありのままの生活の中で禅が行われるように説くのだそうだ。
のちに鎌倉仏教といわれるようになった法然や親鸞の教えは、念仏を唱えれば救われるというものだった。しかし、禅では念仏をしても精神の安定が得られなければ意味がない、と考える。禅という修行をすることによって、つまり自分が努力することによって初めて心の安定が得られるというわけだ。
鎌倉武士が禅を受け入れたのは、このように禅が自らの努力にかかっているからではないだろうか。他者に依存せずに自分の力で精神の安定を獲得するというのは、武士の気性にあったのに違いない。
時頼が禅に支えられ、信仰した理由もそこにあるのかもしれない。

境内の一番奥からは山になって、かなり急傾斜の石段がある。そこを登ると半僧坊だ。



さらにその上の山道を登ると展望台があった。鎌倉の街が一望できる。



武士という新興の勢力が都を築いた時、京都とは違う新たな精神的な支えが必要になった。それが禅だったのだ。そして、その拠点となったのが建長寺だった。
やがて、鎌倉幕府は陥落し、権力の中枢としての鎌倉は歴史から消えていく。しかし、宗教都市としての鎌倉は、奈良、京都と並んで現在までその存在を維持してきた。物理的な要塞はいつか破れても、精神の要塞は崩れないということを、眼下の風景が示しているかのようだ。

臨済宗建長寺派大本山巨福山建長興国禅寺
神奈川県鎌倉市山ノ内8
北鎌倉駅から15分


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