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親鸞聖人、蓮如さんとは違うのだ

そもそも私が仏教に惹かれたのは、大好きな五木寛之先生のエッセイを読みまくったからだ。五木寛之先生の話に出てこられた鎌倉円覚寺の横田南嶺師ら、素晴らしい方々を沢山知り、感動した。
だが、自分の愚かさというか、単純さなのだろう。
ネットで深入りしない方がいい。
尊敬する慈恵医大病院の樋野興夫先生は、「他人のイイネや反論を気にしてしまうからTwitter、FBは辞めたほうがいい。完結型のブログに自分の言いたい事をまとめた方が精神的によい」と言われたが本当にその通りだ。

2020年以降、芸人、タレント、宗教家はネット依存症が増えているような気がする。仕事が減ったが大きいのだろうが。
教会でも毎週の礼拝は中止。オンライン礼拝とやらに。2020年4月に大好きな東洋英和の先生が亡くなられた時には、横浜市の火葬場は「遺族でさえも入らないように」であった。
遺骨を職員がまとめて遺族にと。
志村けんさんの遺族も同じ体験をされたのだろう。涙が出る。
昨日、仲良しのオバサンに「今思うと、そこまでしなくてもね。既に、火葬されたお骨にまでね」と言い合ったのだが、仕方なかったのだろう。

そんな状態で、教会、お寺とネットを駆使の時代となった。
で、そうだからこそ、今まで付き合いのなかった多宗派のメンバーの日常を見て一言!と思う者が出ても仕方ないのかなと感じた。

例えば、浄土真宗の僧侶は何故に、髪の毛を剃らないの?茶髪、金髪とか、あり得ない、など。
更には、セブンイレブンのスイーツを食べているのにも良い顔をしない者もいたり。
髪の毛に関しては、葬儀の時に、ぼさぼさでトレーナーにジーンズとかでなけれないいんじゃないのかな?と思う。
セブンイレブンのスイーツだって、酒だって、どこの寺のメンバーも好む方が多い。釈迦の時代じゃないからね。
むしろ、アル中?か!と疑うようなお寺のメンバーも知っているし。

ただ、感じたのは、五木寛之先生が書いている、親鸞聖人や蓮如上人の姿と今の若い世襲制の僧侶は違うみたいだなということ。
ガッカリだよ!

仏壇とか、本尊の前でふざけた事をしてYoutubeの視聴者を増やす、とか、一部の僧侶や一般人には理解できないんだよね。
なんか、私には理解できないな。というより、浄土真宗は自由なんだー!と、なんでもありなんだろうか?

Twitterで話していた内容として、当たり前のように寺院は世襲制であること。それが私には不思議だ。
江戸時代など、学問を寺で習い、そこから小僧さんが僧侶になったり、と。
宗教学者の島田裕巳先生の本のパクリではないが。
世襲制の場合、そこの家の息子、娘の大学学費を檀家が出している。
その分、お金の負担がある。昔なら、僧侶になりたい者の自己負担だったわけだ。

そして、世間知らずが多いな、というのが、先日のTwitterスペースでの僧侶の集まりを聞いての感想だ。檀家以外を知らないんやろうね。
日本の仏教は鎌倉時代以降、沢山枝分かれしていった。
私なんぞは、ろくに宗派もわからないし、知る努力もしない。めんどくさいし、時間の無駄と思うし、すぐに忘れてしまうだろうから。
そんなことよりも、例えば、京都の清水寺に行って
「景観が素晴らしいなあ」
などの方が忘れないのではないだろうか。

それはよしとして。
牧師だって、ロン毛はいるし、バンド活動とかしてるし。
けれども、礼拝の時はきちんとしている。

私が言いたいのは、本尊の前や法事の席ではきちんとしてもらいたいかな、と。

私が、浄土真宗と日蓮宗の若い僧侶から受けた酷い仕打ちはネットならではかもしれない。案外、現実で会ったりしたら良い方で親しくなれるかも?
ブロックされたけどね。

何故にやり合うのかわからないし、巻き込まれた感はあるのだ。



ま。もう、ネットで宗教家とは付き合わない。リアルを大切にする。
言いたい事は、noteやキャスにする。
他人の邪魔が入りやすいのだ。Twitterは。


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