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鎌倉北条家の悲しい最期を見る寺 鎌倉市 天台宗金龍山宝戒寺 私の百寺巡礼169


宝戒寺は鶴岡八幡宮三の鳥居前の道(横大路)を右に行った突き当りに位置する。寺域は北条義時以来の歴代の北条得宗家の屋敷北條執権邸地跡と伝える。
鎌倉幕府執権(第14代)の北条高時は、元弘3年5月22日1333年7月4日)、新田義貞の軍に追い詰められて葛西ヶ谷(かさいがやつ、宝戒寺の裏山)の東勝寺で自害、一族郎党870余名も運命を共にし、鎌倉幕府は滅亡した。宝戒寺蔵の建武2年3月28日(同1335年4月22日)付の足利尊氏寄進状に、同寺は「北条高時の慰霊のため、その屋敷跡に後醍醐天皇が建立した」旨の記述があり、後醍醐天皇が天台宗の高僧・円観慧鎮を開山としてこの寺を造営しようとしていたことは事実と思われる。しかし、実際の造営は、後醍醐天皇による建武の新政が崩壊し、同天皇が没した後に足利尊氏らによって行なわれたと推定されている。
建武2年寄進状から17年後の1352年観応3年)に作成された足利尊氏寄進状案には、宝戒寺の造営料として上総国武射郡小松村(現千葉県山武市)と、出羽国小田島庄(現山形県東北部)の土地を寄進するとあり、この頃ようやく宝戒寺の造営が本格化したことがわかる。「惟賢灌頂授与記」という文書によると、2世住持の惟賢によって灌頂が宝戒寺で初めて行われたのが1354年文和3年)であり、この頃にようやく寺観が整ったものと思われる。



宝戒寺の裏にある橋


この寺は白が似合う。
数年前に訪れた時には白い彼岸花が悲しく咲いていたのが印書に残っている。

鎌倉幕府執権・北条家は死に絶えてしまった。女子供全てだ。
どのくらいの血がこの場所で流されたのだろう。


萩も数種類の色があるが、やはりここは白が似合う。北条家の最期を見守るべく、ここは花が常に咲いている。萩寺とも言われているのだ。


川を渡り、東勝寺跡に行った。最後の執権となた北条高時はこの場所で自害した。

こちらが北条高時の自害場所だ。
現在は落石の恐れがある為入れない。

当時の面影を残してくれる鎌倉市に感謝したい。

萩の花 御霊守りし 宝戒寺

天台宗金龍山宝戒寺
神奈川県鎌倉市小町3-5
鎌倉駅より徒歩12分


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