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2人の背番号"3"(長嶋茂雄 榎本喜八)

1974年10月14日 後楽園球場

「我が巨人軍は永久に不滅です」

名ゼリフを残して稀代のスーパースター長嶋茂雄は引退した。

9年連続日本一という歴代最強の巨人の4番がいなくなることは一つの時代が終焉したことになる。

彼の背番号3は永久欠番になった。

遡ること2年前1972年パリーグでも背番号3がひっそりと引退していた。西鉄ライオンズの榎本喜八である。

榎本は1955年から1971年に毎日・大毎・東京・ロッテと屋号の異なったオリオンズでプレーした。

長嶋がミスタージャイアンツなら、榎本はミスターオリオンズだった。

ここで2人の通算成績を見てみよう


     長嶋   榎本
通算安打 2471      2314
通算打率 .305       .298
野球殿堂入り1988  2016
背番号3年数 17         18

長嶋は立教大でリーグ戦六大学新記録のホームランを放ち、鳴物入りで入団したのに対し、榎本は早稲田実業で甲子園に出場するも、プロからは全く注目されず、早実の先輩でオリオンズでプレーしていた荒川博に頼んで、テスト入団したという対象的な2人であった。

同時代にプレーした2人が日本シリーズで対決したのは1970年の1回だけで、巨人が4勝1敗で制しているが、既に榎本は主軸ではなかった。
オリオンズがその前に優勝した1960年は榎本はバリバリでミサイル打線の一員だったが、セリーグを制したのは大洋で、長嶋のいる巨人ではなかった。


ダックアウトの中で、四打数三安打なのに「四の一か」と呟いたり、四打数ノーヒットなのに「四の四だ」と喜んでいるEを、オリオンズのナインはよく見ている。

『敗れざるものたち』沢木耕太郎著より

榎本はバッティングの求道者だった。

史上最年少1000本安打、2000本安打はNPB限定ならいまだに破られていない(日米通算は2000本はイチローが保持)

当時パリーグでプレーしていた張本勲(NPB歴代最多安打)や野村克也(三冠王、歴代2位本塁打)らが歴代最強打者は榎本と言っている。

引退後長嶋は巨人の監督を2期15年指揮し、2度の日本一、日本代表も指揮した。2013年には国民栄誉賞も受賞し、スターは引退後もずっとスターだった。

榎本は引退後、監督、コーチはおろか、解説者の仕事すらしていない。
選手時代後半から奇行が目立っていたのと、バッティング理論が独特過ぎて、難解だったからだったようだ。

それでもかなりしばらくして、功績が認められた。長嶋から遅れること28年後の2016年に野球殿堂入りを果たす。彼は2012年に既にこの世を去っていた。

長嶋よりも1年長く背番号3を背負ってプレーした男だった。

オリオンズは1992年に本拠地を千葉に移転し、以降現在までマリーンズとなっている。


自分が小学校時代、地元の野球チームに入るのに、背番号は並んだ順でもらえるという仕組みで、もらったのは5だったが、どうしても3が欲しいと並んでいたお爺さんが孫の為に朝から並び、周りを説得し3をゲットしていたエピソードがあるが、ボクが榎本を知ったのは、その20年近く後にスポーツ雑誌numberの特集を読んでからだった。それでもその時はピンとこなかった。

最近になり、たまたま手にした沢木耕太郎の本を読んで、関心を持ったのだ。


長嶋がひまわりなら、俺は日本海にひっそりと咲く月見草

野村克也

長嶋はサーカスのライオンで、榎本は神主

長嶋が悪いわけではない。ただ華やかな時代の影に隠れていた人もいるということだ。

ただ榎本は晩年、ネットの普及により、かつての功績を知った人たちから手紙が届くようになり、"人気があるんだな"と言っていたと後年に彼の息子が発言していたそうだ。

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