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断続と連続の弁証法――アラン・ロブ=グリエ『不滅の女』における男の眼差し


はじめに

 アラン・ロブ=グリエ(Alain Robbe-Grillet, 1922-2008)は、フランスの戦後の前衛小説を指すヌーヴォー・ロマンというジャンルを代表する作家であり、映画監督である。ロブ=グリエは、1960年に脚本を担当した『去年、マリエンバードで』で実質映画監督としてのデビューを果たした。翌年この作品は、ヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を受賞し、彼はアカデミー脚本賞の候補に選出された。その後1963年に発表された『不滅の女』(原題『L'Immortelle』)は、彼が監督の名義を冠した初めての作品である。『不滅の女』は同年にベルリン国際映画祭に出品されたほか、ルイ・デュリュック賞を受賞した。

 『不滅の女』において、主人公である男(ジャック・ドニオル=バルクローズ)は、異国の地であるトルコで、素性の分からないラーレという名の女(フランソワーズ・ブリオン)と出会い、行動を共にするようになる。しかし、ある日突然彼女は男の元を去り、男は彼女の行方を追う。作品の大方の筋書きは以上のようであるが、実際には同じようなショットが一部の変化を伴って反復するという形式をとって作品が進行する。したがって、『不滅の女』の物語は直線的な時間軸に沿って展開されているとは考えにくいため、作品内で何が起こっているかをはっきりと判別することは難しい。唯一確かなのは、男が一貫してラーレを追い求めているということのみである。

 それゆえ、本論では男がラーレに固執する理由を検討することによって、『不滅の女』の構造の謎に迫りたい。この問いを明らかにすれば、従来の一定の物語の流れに沿って語られる形式の映画とは異なる『不滅の女』の特異性が明らかになるだろう。小説の分野でヌーヴォー・ロマンというジャンルを確立したロブ=グリエは、映画のなかにも前衛を持ち込んだのである。

 

1. 想像の世界

1-1. 継起的時間の否定

 男がラーレを追求する理由を問うために、本節ではまず男とラーレの関係性について論ずる。物語は時系列を無視して進むので、男と彼女の出会いは、あるようでいてないようなものである。本節では、差し当たって男とラーレが初めて登場するシーンを論じたい。

 物語冒頭で、流れるイスタンブールの街並みを映す画面が、ラーレの叫び声がした途端に彼女のクロースアップに切り替わる。当初ピントが定まっていなかった彼女の輪郭は、フォーカスインによって鮮明になる。彼女はほとんど瞬きもせず、微笑をたたえながら、カメラを凝視している。その様子から、彼女がまるで生気を失った人形であるかのように思われる。このショットは、室内にいる男が窓から階下の風景を覗き込んでいるショットに移る。カチカチという開閉音がすると、画面一面に敷かれた鎧戸が開き、先ほどのラーレのクロースアップが再び現れる[1]。この鎧戸は男が見ている窓に取りつけてあるものであり、ラーレは鎧戸の向こう側に見えていると言ってよいだろう。

 しかし、男は窓から外の地上の風景をのぞき込んでいるのであり、そう考えればラーレのクロースアップが窓の外に現れるはずもない。男が見ていると思われるこの女はいったい何者なのだろうか。

 このシーンの続きを追ってみよう。ラーレのクロースアップの後には、遺跡や船上、浜辺、波止場で佇む彼女のショットが次々に続く。その次には、なんと男と同じ二階の別の窓から階下を覗き込んでいる彼女のショットが挿入される。カメラがラーレにズームインすると、彼女は振り返り、さらにズームインすると、画面には彼女の顔のクロースアップが映される[2]

 さまざまな風景のなかで佇むラーレのショットは、のちに男とラーレが行動を共にするようになってからのシーンの一コマの数々である。男がまだラーレとの邂逅を果たしていないことを考えると、男がラーレの顔を窓から見ることができるのはやはり自然ではない。他方で、ラーレの顔のクロースアップもまた、作品内で度々前後のシーンと脈絡のない頃合いで挿入される。これらのことから、はじめに述べたように『不滅の女』における時間軸が直線的でないことが分かるだろう。

 このラーレの異なる複数のショットが作品内で入り乱れることについて、『不滅の女』が公開された当時、映画評論家である金坂健二は「ここでも時制(tense)は複雑に交叉していると見るのが正しいだろう。あるいはすべての時制は現在形なのだ」と述べた[3]。つまり金坂は、ラーレがカメラに向かって微笑んでいるクロースアップも、浜辺で佇む女のショットも、全ては現在において起こっていることとして見なせると言うのだ。

 現在という言葉に着目すれば、ドゥルーズもまた、ロブ=グリエの映画について、『不滅の女』を例の一つとして挙げながら、「彼においては、移行する諸現在の継起などは決してなく、過去の現在、現在の現在、未来の現在の同時性がある」と論じる[4]。ドゥルーズにとって、『不滅の女』においては、継起的な時間はありえなく、過去、現在、未来が同時に起こりえるのである。この見解は、金坂の解釈とそう離れたものではないだろう。

 しかし、われわれは一般的に時間を何か一つの出来事を起点として継起するものとして捉えている。両者の解釈を『不滅の女』の解釈に採用するのならば、それらを可能にするような原理を作品の内に見出さなければならない。

 その原理を見出す手掛かりとなるのがラーレの実体の謎である。彼女は見えるはずのない二階の窓からその笑顔を男に見せた。加えて、彼女は次々とその身をさまざまな場所へと移し、最終的に男と同じ部屋に存在し、またも微笑をクロースアップで男に振りまく。この一連のラーレの様子が、男が外の風景を注視している間に映像として流れるのである。映像のなかで、ラーレは時間だけでなく、空間も超えた存在なのであるが、実際そのようなことが起こるとは考えにくい。ラーレがこれらの振る舞いを可能にする場合があるとするならば、彼女が男の想像の産物であったとするときのみではないだろうか。

 ラーレが男の想像の内に存在するとすれば、彼女の笑顔のクロースアップや色々の場所における彼女のショットが次々に挿入されることにも説明がつく。つまり、男が想起さえすれば、ラーレは現前するのである。それゆえ、『不滅の女』では過去も現在も未来も全て同時に現在として起こり得るのだ。

 

1-2. 異国と女の照応

 だが、継起的時間の否定のみでは、ラーレが男の想像の産物であるとする根拠には足らない。なぜなら、男の想起によって彼女がその姿を見せるのならば、わざわざ男が二階の窓を覗き込む必要性がないためである。彼が二階の窓に寄るのは、その行為に何かラーレの現前に関係する鍵があるに違いない。

 先に述べたシーンの続きを見てみよう。ラーレの顔のクロースアップの上に再び鎧戸が現れ、音を立てながら閉まり始めると、彼女の顔は見えなくなりそうになる。すると男が閉まりかけた鎧戸を再び開けようとするショットに切り替わる。このショットの連続性から、男は二階の窓からラーレのクロースアップを覗いていることがわかる。しかし、実際次に繋がるショットは、海と、波止場の縁に座る老人と、魚を映すのみである[5]。このショットはハイアングルで撮られており、二階にいる男の視点であることは明らかである。このいたって普通のトルコの風景が、男がラーレの妄想を働かせるためにどのように関係しているのだろうか。

 男が二階の窓から階下を見ている間に見た妄想を振り返ろう。男が鎧戸を開けている間に見た妄想と思われるショットは、ラーレの顔のクロースアップを除けば、遺跡や船上、浜辺、波止場で佇む彼女のショットで構成されていた。これらのショットと男が実際に見ている視界の共通点を見出すに、両者ともトルコの風景を映しているということが挙げられる。しかし、ラーレとトルコはどのようにかかわり合っているのだろうか。

 さまざまな風景のなかで佇むラーレのショットが、男とラーレが行動を共にするようになってからのシーンのものであることを考えたい。男はラーレに道を聞くことによって出会い、道を案内してもらったことに対してのお返しとしてパーティに誘ったことをきっかけに、二人は逢瀬を重ねるようになる。異国の地であるトルコに来たばかりの男は、ラーレに案内してもらう形で二人の時間を過ごすが、二人は度々不思議な言動を繰り返す。

 なかでも最も象徴的な出来事は、男と女がベリーダンスを観に行った折のことである。二人が会場に着いたとき、すでにダンスは始まっていた。踊り子がスポットライトを浴びながら一人で踊る様子をカメラは正面から捉える。他方、画面を覆いつくすほどの大勢の男性客が踊り子を凝視するショットもまた正面から撮られており、客と踊り子の見る/見られるという対応関係が強調されている。踊り子が髪を上げてうなじを見せる振り付けをしたところ、席に着いたラーレのうなじがクロースアップで映され、男の手が触れる。しかし、男の視線は踊り子に向けられたままである[6]

 このシーンにおいて、踊り子を男性客たちが凝視していたことと、男が『不滅の女』冒頭で女の微笑を凝視していたことは、どちらも男性が女性を見つめ、客体化している構造であるという点で重複する。加えて、男が踊り子のうなじに注意を向けながら、ラーレのうなじを触っていたことは、男のなかで踊り子とラーレが重ねられていることをほのめかしている。また、後にラーレが突然ベリーダンスを始めるシーンもあり、ラーレは踊り子との同一化を果たしているといってよいだろう[7]

 そのうえ、ベリーダンスの踊り子といえば、トルコを思わせる典型的なモチーフのひとつである。フランス人である男にとって、トルコは西洋から離れた未知の国である。彼にとっては、トルコの全てが自分とは異質の謎に溢れたものとして映っていることだろう。他方で、トルコは西洋人の異国情緒の対象にもなる。つまり、男にとってトルコは不可解である一方、憧れの対象でもあるのだ。このトルコの不可解さと憧れは、男にとって、不思議な言動を繰り返し、やがて自分の前から姿を消す美しいラーレにも共通する。実際、比較文学者であるサイードが、西洋文学のなかで東洋が女性の性的魅惑と結びつけられていることを指摘している[8]ことからも、東洋と女性は、伝統的に結び付けられていることが分かる。したがって、男は異国の地であるトルコの光景を二階の窓から覗き見ることで、ラーレを想起することができるのではないか。

 しかし、踊り子の例だけでは、トルコの海を見ただけで男がラーレを妄想できる理由には納得がいかない。だが、ラーレとトルコの海においても結び付きは見られる。ラーレが男の招待でパーティに来た時、男の家の開け放たれた玄関に入ってきたラーレは、海を背にしており、まるで海から男の家に訪れたように思える[9]。彼女の姿は初め逆光となって、見えるのは彼女の影ばかりで、背後の海だけがはっきりと画面に映っている。また、男と浜辺で佇んでいるシーンでは、急に立ち上がったかと思えば、「帰らないと」と呟いて、彼女は海へと歩き出す[10]。カメラはまるで本当に彼女が海に帰るかのように、海へと向かう彼女の姿を追いかけ、彼女が海に入る前に横滑りし、海だけを画面いっぱいに映し出す。

 これらの描写は、彼女をトルコの海と一体化させているように見える。したがって、男にとって、ラーレはトルコそのものであるかのように映っているのではないだろうか。それゆえ、男は二階の窓から見えるトルコの海を見ることで妄想のなかの女を想起することができるのである。

 本節では、過去、現在、未来へと直線的に流れる時間が『不滅の女』内では通用しない点と、トルコとラーレの類縁関係から、男とラーレの関係を検討した。ラーレは男の想像の世界であるトルコそのものであり、彼女はそのなかで生きる妄想の産物であったのだ。彼女は男の心の内に存在するため、彼女は男が想起すれさえすれば立ちどころに姿を現すのだ。

 

2. 自己のかたわれとしての女

2-1. 窃視と眼差しの相補性

 ラーレの現前が窓辺に寄った限りにおいて彼の想起にかかっているのだとすれば、男とラーレの間の視線と現前の関係は常態化しているといえる。したがって、男がラーレに執着する必要は全くない。しかし、彼が『不滅の女』において、一貫してラーレを追い求め、ついにはその身を滅ぼしてしまうのはなぜだろうか。

 前節では、男が見つめる対象であるラーレの正体について検討した。本節では、ラーレが男に対してどのように作用しているかについて手掛かりとして、男が彼女に執着する理由を考察しよう。そのため、冒頭のシーンについて再考する。

 冒頭のシーンにおいて、男が実際に二階から見下ろしているものは、トルコの風景である。男が窓を覗いているショットの次に、トルコの港を背景にして、老人が男の家の前に椅子を置いて座って釣りをしているショットが続く。ふいに老人が振り返ると、カメラも続いて老人が振り返って見た先の二階の窓を映し出す。老人は男が自分を見ていることと同様に、二階の窓を眼差したのである。この老人の眼差しは、続くショットにおいて、他の登場人物たちが、トルコの家々の住人が二階の窓から自らを眼差されているのを見ているショットが断片的に連続することで強調されている[11]

 その後、元の主人公の男が見ている階下の風景のショットに戻ると、老人はサングラスをした男(グイド・チェラーノ)に二階の窓から人が覗いていたかどうかを訪ねられる。サングラスの男は「昨日と同じか?」と老人に聞いており、彼が継続的な二階の窓の監視を老人に頼んでいたことが窺える。男が二階の窓を見上げると、男はすばやく窓から身を離す[12]。このことから、男は自分が窓の外を見ている一方で、自分の姿を見られてはいけないという意識の下にあることがわかる。つまり、男は監視下に置かれており、窓から見える風景を窃視していたのである。

 なぜ男は窃視をしてまでラーレを妄想したかったのか。この状況を解釈するために、精神分析家であるラカンによる窃視症の論を参照しよう。なぜなら、ラカンは窃視と欲動を結び付けて論じているためである。このシーンと精神分析を結び付けるのはいささか唐突かもしれない。だが、事実ロブ=グリエは彼自身の映画観についてラカンの精神分析に基づいて語っているので[13]、ラカンの窃視症についての論は、『不滅の女』を解釈する一助となるはずだ。

 ラカンは、『存在と無』におけるサルトルの窃視の論に依拠しながら、彼自身の論を展開している。サルトルによれば、他者とは窃視者の背後から眼差し、窃視者を単なる客観として主体から無化する存在であるという。窃視者は他者によって自分に向けられた眼差しを意識し、主観としての自分が無化することに恥を感じることで、反省的主体としての自己を獲得するのである[14]

 ラカンはこの窃視論を自身の眼差しの論に応用した。ラカンによれば、窃視者が見ている対象自体が眼差しであり、窃視者はいわば眼差しとしての対象を見ようとしているのだという[15]。しかし、「主体がこの眼差しに焦点を合わせようとするやいなや、この眼差しは点状の対象、消えゆく存在の点となり、この点を主体は自身の瓦解と取り違え」[16]る。すなわち、窃視者が眼差しを見ようとする途端、眼差しは消えてしまうので、窃視者は眼差しを見ることが不能になったことを自分自身の存立の危機だと感じるのだ。

 確かに、男は窓辺でラーレの幻想を見るが、ラーレとの仲を深めた後も、彼女は素性を明かさないばかりか、突然消息を絶ち、事故死するなどつねに男の目からすり抜ける。男の想起によってラーレの現前が可能になるとはいうものの、男の窓辺での窃視によって彼女が登場するショットの反復は、つねに前後のショットとの脈絡がない。彼女は神出鬼没なのである。そのうえ、行方不明になった彼女の動向を無我夢中で探るうち、男はいつのまにか事故死してしまう。つまり、ラーレの素性が把握できなかった男は自らを滅ぼしてしまうことになるのだ。したがって、ラカンによる眼差しの論を『不滅の女』の構造に結びつけることには、妥当性があるといえる。

 より具体的に男による窃視をラーレへの固執に結びつけたい。前述したように、ラカンは眼差しが捉えられないことによって、窃視者は主体の存続の危機に置かれると述べた。裏を返せば、眼差しに目を向けることで、窃視者は能動的に自己の存在を確立することを可能にする。他方で、窃視者自身の存在があってこそ、想像の産物であるラーレは、対象として窃視者である男に眼差しを向けることができる。この窃視と眼差しの相補性が、男をラーレに対する固執に駆り立てるのではないか。

 

2-2. 主体の分裂

 以上のように、ラカンの窃視についての論から、ラーレは男の主体を成立させるため、男は彼女に固執すると導いた。しかし、ラカンの論を援用する形のみでは、『不滅の女』の具体性に即すことはできず、男がラーレを窃視の対象とする理由は見えてこない。『不滅の女』を分析するには、男が彼女を窃視の対象とする根拠は、映像のなかに見出す必要がある。

 したがって、冒頭のシーンに話を戻そう。このシーンにおいて、男は監視されていることに気付くと、瞬時に鎧戸から身を離して隠れる。このショットは、男が女と実際に出会い、家まで車で送ってもらったシーンにおいても反復される。男とラーレが男の家の前で話をしており、男が自宅を紹介するために二階の窓を指さすと、鎧戸の空いた窓が映し出される。すると、冒頭で流れていた男が窓から身を背けるショットが再び挿入されるのだ[17]

 このとき、二階の窓からラーレを窃視している男と、階下から二階の窓を眼差す男は同一人物であり、主人公の男の存在が並立していることになる。普通に考えれば、同じ人物が異なる場所に同時に存在することはありえない。しかし、二階の窓から見ている風景が男から生じた妄想であることを考えれば、男は妄想のなかに自己を位置付けることも可能であろう。男は自分で自分を見ることによって、客観的な自己を成立させていたのである。このことから、男の見ている対象、すなわちラーレは、男から分化したものであるといえるのではないか。

 加えて、ラーレもまた男による想像であり、ひいてはトルコの国自体も男による幻想である。すべては、男に由来しているのである。ラーレは映像が進むにつれ、いつのまにか主人公の男と出会い、行動を共にするようになる。彼が覗き込んでいたはずの妄想であるラーレは、突然男と出会い、仲を深めた。このことこそまさしくトルコが想像の国たる所以なのである。通常妄想の産物が実際に妄想する主体とかかわることはありえないが、それが可能になる場合が想像の世界のなかに主体である男を位置付けた場合なのだ。つまり、トルコは主人公の男による心象風景であり、『不滅の女』は主人公の男の心の内で繰り広げられているのである。

 ラーレを男の片割れとするさらなる根拠として、物語中盤で作中に登場する鏡のモチーフが挙げられる。ラーレが交通事故で死んだ後、男が鏡に向かうシーンがある。彼は鏡に映った自分自身に対して、額の辺りを撫でるような素振りをする。ふいに彼が目線を下に動かすと、カメラは机の脚に施されたチューリップのレリーフをクロースアップにする[18]。チューリップはトルコを象徴する花であるうえ、トルコ語でラーレと言うことから、男はこのシーンにおいてラーレと自らの鏡像を結び付けているといえよう。鏡に映った自分はもう一人の男であり、その鏡像がラーレを意味するチューリップと重ねられているのである。

 この撫でるような仕草は、物語後半の別のシーンにおいて、ラーレに回帰する。男は上述のシーンの後、ラーレの周辺人物について調べるうちに、トルコ人の男児から地下の監獄を案内される。男が地下へと降りていくと、檻のなかに囚われたラーレを男が撫でているショットが続くのだ。檻のなかのラーレは、男の手が実際に触れていないのにもかかわらず、男の手の動きに合わせて身を捩らせる[19]

 この二つのシーンは、男の撫でる動作の類似性に加えて、直接対象に触れていないという点で共通する。つまり、ラーレは妄想の産物であるゆえに実体がない。同様に、男の鏡像もまた手が触れたとしても鏡であり鏡像ではないので、実体がないのである。したがって、鏡のモチーフという観点からも、ラーレが男の分裂であると考えられよう。

 以上のように、本節では男がラーレに執着する理由について、ラカンの窃視論に基づき、ラーレという妄想が男の主体性を担保させるためであるとした。ラーレの内実とは男の分裂した片割れであり、男は自分で自分を見ることによって自分の存在を確立していたのである。

 

3. 『不滅の女』の構造

3-1. 監視する男

 しかし、前節までの帰結で『不滅の女』の構造を捉えることは早計である。なぜなら、男が窓から想像の世界を覗くことを窃視たらしめているサングラスをした男の存在を、われわれはまだ解釈していないためだ。男は窃視するという動作の限りにおいて、自己の存在を可能にしているので、このサングラスをした男の役割もまた明確にしなければ、『不滅の女』は未だ謎に包まれたままである。したがって本節では、サングラスの男の正体を明らかにすることによって、『不滅の女』の構造に答えを出したい。

 前節で触れたように、サングラスの男は、主人公の男が鎧戸から顔を覗かせていないかどうかを釣り人に見張らせていた。サングラスの男が二階の鎧戸に視線を移すと、主人公の男は意表を突かれたように窓から身を隠すのである。サングラスの男はこのシーンのみならず、『不滅の女』における様々なシーンで主人公である男のもとに現れ、つねに男にとって神出鬼没である。

 サングラスの男が監視しているのは主人公の男だけではない。男の分裂したかたわれであるラーレもまた同様に監視下に置かれている。たとえば、主人公の男とラーレが束の間の逢瀬を楽しんでいても、突然立ちふさがったトルコ人の男児から「あの人が探しているよ」と告げられれば、すぐにラーレは帰ってしまう[20]。その後、会う約束の日が過ぎても消息のとれないラーレを男は探すことになる。ついに繁華街の人混みのなかで男がラーレを見つけたとき、彼女はサングラスの男と一緒にいたのである。街角に立つ女は微動だにせず、遠くを見つめており、まるで自由がないかのようだ。サングラスの男の姿が見えなくなり、主人公の男がラーレに話しかけようとすると、彼女は一緒にいるところを見られてはいけないと男に忠告するのである[21]。このときラーレはカットが変わるごとに目線を変えており、主人公の男と話していることをサングラスの男に悟られないようにしていることが窺える。

 また、サングラスの男は二人の前に気配を見せずとも、二人を監視することができる。前述した二人が海辺で佇んでいるシーンでは、突然サングラスの男が連れている犬の咆哮と、彼の口笛が映像に挿入されたかと思うと、ラーレは「帰らなきゃ」と呟き、海へと消えるのだ[22]。このシーンは物語後半でも脈絡なく挿入され[23]、サングラスの男の自在な出没を明確にしている。

 そのうえ、サングラスの男はトルコの人びとを介することによっても、二人を監視している。主人公の男がラーレの体に触れようとすると、彼女は「窓から見ているわ」と制し、そのまま視線を動かすとトルコの家々の二階の窓に姿を現したトルコ人が素早く身を隠すショットが挿入される[24]。ほかにも二人の逢瀬を捉えたショットでは、背後にトルコ人が二人に視線を送っている構図が多く[25]、二人の動向はトルコ人によっても監視されているといってよい。サングラスの男がトルコ人の釣り人に主人公の家の窓の監視をさせていたことや、トルコ人の男児にラーレへ言づてを頼んだことから、トルコ人たちのラーレと主人公の男に対する眼差しは、サングラスをした男に由来することがわかる。サングラスの男はトルコと共謀しているのである。それゆえ、トルコの人びともまたサングラスの男と同様、二人を監視するのだ。

 つまり、サングラスをした男は、時間や場所とは無関係に主人公の男とラーレを監視することができるのである。しかし、一般的な観点からすれば、このような現象は起こるべくもない。サングラスの男はなぜ二人の行動に視線を巡らせる特性を有しているのか。

 その秘密を解く鍵は、トルコという国が男の幻想のうちにあることにある。第一章二節で述べたラーレの現前が二階の窓から見えるトルコの風景に起因していることについて再考しよう。主人公の男は、窓から見えるトルコという国について、謎めいた未知の国であるという印象を抱いていた。その印象は、正体不明のラーレと照応するため、彼は窓の向こう側の風景にラーレという想像の産物を見出すことができるのである。このことは、ラーレが度々トルコについて想像の国であると言及することによって確固たるものとなる[26]。つまり、トルコは男の心象風景そのものだといえる。

 したがって、ラーレと同様、想像の国であるトルコのなかで行動するサングラスの男もまた、主人公の男の想像の一部分を成しているのではないか。そう考えれば、サングラスの男が自在に二人を監視できることにも説明がつく。なぜなら、主人公の男がサングラスの男に監視されていると思えば、実現するのが想像であるからだ。次節では、サングラスの男もまた、主人公の男の想像の一角を成すと仮定して論を進めてみよう。

 

3-2. 欲望への接近と迂回

 しかし、この男もまた主人公の男の妄想の一部であるとしたら、彼が主人公の男からラーレを引き離そうとするのは不自然である。なぜサングラスをした男は主人公の男とラーレが関係しないように監視するのだろうか。この根拠の手掛かりは、主人公の男とラーレが窃視という条件の下で結び付けられていることにある。

 これまでの分析から導いた『不滅の女』における窃視の原理について振り返ろう。男は釣り人に見つからないように鎧戸からトルコの風景を覗き込むことで、ラーレを想像によって現前させていた。しかし、まさしくそのトルコの風景の一部を形成している釣り人から不意打ちの眼差しをくらうことで、男は主体としての自己を存立させていたのである。

 すなわち、あくまで窃視というかたちでトルコの風景に視線を送ればこそ、主人公の男はその存在を確立することができる。そのうえ、男の存在があってはじめて、男の妄想の産物であるラーレもまた存在するのである。したがって、窃視という行為でなければ、男同様ラーレもまた成立しなくなるため、男は窃視する必要があるのである。

 この原理にサングラスをした男の存在を導入しよう。彼は釣り人に主人公の男が鎧戸から見ているかどうかの監視を頼んでいた。そのうえ、サングラスの男本人は作中において時や場所を問わず主人公の男の前に突然現れる。ラーレに対しても、彼女が主人公の男と二人の時間を過ごしているときに突然彼女を帰らせる。つまり、サングラスをした男は主人公の男とラーレが馴れ合うことを抑圧しているのである。

 しかし、他方でこの監視という抑圧は、供給にもなりうる。なぜなら、主人公の男は対象から眼差されないために窃視をするなかで、その眼差しに不意打ちにされることで自己の存在を確立することを可能にするためである。自らの存在があってはじめてラーレを想起することもできるので、窃視が主人公の男にとって供給でありうるとしてもおかしくはないだろう。この主人公とラーレの間における窃視を成立させているのが、サングラスをした男なのである。彼は、主人公の男からラーレを引き離す一方で、二人を監視することでそれぞれが存在することを可能にするのである。

 以上のように、窃視には抑圧と供給という両義的な側面がある。窃視の原因がサングラスの男にあるとすれば、『不滅の女』における彼の監視の意味は、精神分析家であるフロイトの欲動論における現実原則を参照することによって説明することができるのではないか。なぜなら、欲動論において、現実原則の役割もまた、快を志向する一方で先延ばしにするという二面性を持つためである[27]。『不滅の女』においてサングラスの男が主人公の男の心象であることと併せても、自我を快感自我と現実自我から構成されるとするこの欲動論は、サングラスの男の役割を検討するにあたって有用であるといえる。

 フロイトによれば、人間の自我には快感原則と現実原則にそれぞれ従う快感自我と現実自我があると説いた。快感原則は性的な欲動に、現実原則は自己を危険から守り、保存するという欲動によって支配されている。快感自我は性欲動を満たすためにひたすら快を求めるが、行き過ぎた欲望は自我にとって危険をもたらす場合もある。そのため、現実自我はこの快感自我の勝手を制御するのであり、このことが自我に対する抑圧に繋がるのである。だが、現実自我による抑圧はあくまで危険を回避し、自己保存を達成するために満足を迂回するものであり、性欲動自体を否定するものではない[28]

 この快感自我と現実自我の関係は、ラーレの現前を快とすれば、主人公の男とサングラスの男の関係に転用することができる。すなわち、主人公の男は窃視をすることで、イメージとしてのラーレを窓の外に現前させることを可能にして快を達成する。だが、あくまで想像の世界とはいえ、実際にラーレとかかわるようになると、ラーレを窃視することにはならない。窃視することで、主人公の男は主体を確立し、ひいては男の主体が確立することで彼の妄想であるラーレも存在することができるはずである。それゆえ、ラーレと主人公の男が接する状況において、サングラスをした男がラーレを主人公の男の前から立ち退かせることで、男はまたも一人になり、家の二階の窓からラーレを覗き見るようになるのだ。

 つまり、サングラスの男は窃視の場を提供すると同時に、二人を監視することで、二人の距離を適切に保っているのである。この男の役割は、ラーレという快に対する主人公の男の欲動を抑圧する一方で、窃視という状況を作り出すことによって男の主体を確保するという点で、現実自我に通ずるといえる。そう考えれば、サングラスを掛けた男も主人公も、元は同じ存在である。つまり、ラーレと同様に、サングラスの男もまた、主人公の男の分裂なのである。

 このようにラーレという幻想を蝶番にして、物語において、主人公の男は欲望に忠実な存在であり、サングラスの男は主人公の男が度を超さないように抑圧し、迂回するかたちで彼を満足させる存在なのである。したがって『不滅の女』は、サングラスをした男がラーレに貪欲な主人公を監視することで彼の存在を確保しつつ満足を達成させるように仕向けるというような、ラーレという快を中心に据える一元論的構造をとっているのではないか。

 

3-3. 『不滅の女』の構造

 この構造が、『不滅の女』の過去や現在、未来が交錯しているかのような時間軸による展開に繋がる。主人公の男がラーレを欲望するや否や、彼女は彼の前に姿を現す。したがって、唐突にラーレのクロースアップや、主人公の男が彼女と戯れるショットが前後のショットを無視して挿入されるのである。つまり『不滅の女』は主人公の男の心象風景を描いたものであるため、どの時点でどんなショットが続くかは男の想起にかかっているのである。

 しかし、この想起によって現前したラーレは、主人公の男の心のなかに浮かんだイメージにすぎない。彼は、幻想としてのラーレによって一時的に満足することはできても、このラーレは実体を伴っていないので、恒常的な快は得られない。そればかりか、主人公の男は現実から遊離して自己のうちに囚われていることになり、彼にとって危険な状態であるといえる。このため、サングラスをした男は彼を監視することで、ラーレの妄想を一時的に中断させ、物語を現実と同じ継起的な時間軸へと引き戻そうとするのである。

 そのように解釈すれば、はじめに述べた『不滅の女』の特徴である同じようなショットが一部の変化を伴って反復するという形式の訳が明らかになる。すなわち、『不滅の女』の展開は、主人公の男の想起によって現れるラーレのショットの反復と、サングラスの男による現実の時間軸に近い継起的なショットの連鎖の拮抗によってなされるのである。この弁証法のため、『不滅の女』は、繰り返される同じようなショットが少しずつ変化するなかでゆるやかに物語が展開するという謎を可能にするのだ。

 畢竟『不滅の女』は、主人公の男がラーレの自動車事故を反復することによって、物語の結末を迎える。結末において、主人公の男はひとりでトルコの街中を走行している。映画内にこだまするラーレの「もう引き返せない」という言葉に吸い寄せられるかのように、カメラがトルコの風景を横滑りで捉えるなか、男はいつのまにかラーレが事故死した道を通りかかる。彼女の急かす声が物語内に反響し、車内の後部座席の視点から映された男は、まるでラーレに誘導されているかのようだ。絶え間ないラーレの捲し立てに呼応するかのように男は速度を上げて運転するが、カメラが彼を正面から映したとき、後部座席には誰も座っていない[29]。男はラーレの幻聴を聴いているのである。

 突然画面にサングラスの男の連れていた犬がフロントガラスに映りクロースアップされると、ラーレの叫び声が響き渡り、そのつぎのショットでは事故死した時のラーレの場合[30]と同じような姿勢で死んでいる男の姿が、同じアングルで撮られている。その後、物語の最初に現れたラーレの顔のクロースアップがフォーカスアウトして、『不滅の女』は幕を閉じるのである[31]

 この結末は、ラーレの事故死の主体が男にすり替わるという変化を伴って回帰しているといってよいだろう。もっと早くというラーレの幻聴に従うかのように走行スピードを上げる主人公の男は、ラーレという快への欲望に忠実である。他方、サングラスの男は暴走する彼の車を路傍から見つめることしかできない[32]。もはやサングラスの男による監視が意味をなさないほど、主人公の男は欲望のままなのである。主人公の男にとって、欲望に忠実である方が危険を回避することより重視されていることを象徴するかのように、サングラスの男の連れている犬は主人公の車と衝突し、死んでしまう。

 しかし、このことは同時に主人公の男の死をも意味する。なぜなら、主人公の快への暴走に対して、彼の破滅を回避するために主人公を監視していたサングラスの男は無化されてしまったためである。その結果、『不滅の女』のなかで繰り広げられる主人公の男の内的世界は、主人公の男の享楽のみで飽和し、彼の危険を退ける手段は絶たれてしまった。主人公の男が死んだとき、ラーレの幻想もまた消えゆき、物語もまた終焉を迎える。心象風景を構築する主体が潰えたと同時に、物語世界は崩壊し、全てはなきものとなるのである。

 

おわりに

 以上のように、『不滅の女』の構造の謎を明らかにすることを目的として、『不滅の女』において男がラーレに固執する理由について議論した。結論を導くにあたって、これまでに述べた論を振り返ろう。

 主人公の男は、二階の窓の鎧戸からトルコの風景を覗き見ることで、ラーレという正体の分からない女性の姿を垣間見ることを可能にしていた。トルコという異国は、彼にとって謎に包まれており、空想で補完するよりほかないという点で、謎に包まれたラーレと類縁性があり、彼女を想起するには十分であった。つまり、ラーレは主人公の妄想であり、トルコは彼による精神世界なのである。彼は心象風景のなかに自らの身を置くことで、つねに彼女を想起することができる。

 それにもかかわらず、彼が彼女に執着する理由は、主人公の男がラーレを想起するためには窃視という条件が必要であるからだ。窃視することによって、男はその存在を存立する。それゆえ男ははじめて妄想することによってラーレを現前させられるのである。そのうえ、窃視の対象としてのラーレを志向することが彼の主体性の担保となるため、彼は自己のかたわれであるラーレに快を感じ、固執するのである。

 しかし、盲目的に快を追求することは自己を見失い、破滅に向かう危険を伴う。主体を確立するために現前させていたラーレが、逆説的に主人公の男を自己保存の危機に陥らせるのである。この危機を回避するために、『不滅の女』にはサングラスをした男が登場する。サングラスの男は終始主人公の男とラーレを監視することで、主人公によるラーレへの窃視を可能にする一方で、主人公とラーレの心的距離を適切に保つ。このことにより、主人公の男は自己保存を達成しながら、ほどよく満足を達成することができる。

 したがって、『不滅の女』は、サングラスをした男がラーレに貪欲な主人公に対して監視することで、主人公の存在を確保しつつ、主人公の満足を達成させるという、ラーレという快への主人公の欲望を中心に据える一元論的構造をとっているのである。この物語構造は、『不滅の女』のショット構成にも投影される。つまり、ラーレのショットの反復は主人公の男の快への猛進を、ラーレが姿を消した際の継起的なショットの連鎖はサングラスの男による現実への引き戻しを示しているのだ。『不滅の女』において、偶発的な脈絡のないラーレのショットの断続と、現実と同じ時間軸に沿ったショットの連続は拮抗しあう。その結果、同じようなショットが一部の変化を伴って反復することによって、映像が進行する。ややもすれば理解しがたいような『不滅の女』の映像構造は、主人公の男の欲望への忠実さと自己保存の間の葛藤の表れだったのである。

 

参考文献

アラン・ロブ=グリエ監督/脚本『不滅の女』、ザジフィルムズ、1963年。

アラン・ロブ=グリエ「ロブグリエによるロブグリエ」(三浦信孝・福崎裕子訳)、『ユリイカ』、第28巻12号(1996年)。

金坂健二「ロブグリエの「不滅の女」と内部のシネマ」、『映画評論』、第20巻6号(1963年)。

ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』(宇野邦一/石原陽一郎/江澤健一郎/大原理志/岡村民夫訳)、法政大学出版局、2006年。

福尾匠『眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』、フィルムアート社、2018年。

エドワード・W・サイード『オリエンタリズム』(今沢紀子訳)、板垣雄三・杉田英明監修、平凡社、1986年。

ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念(上・下)』(小出浩之・新宮一成・鈴木國文・小川豊昭訳)、ジャック=アラン・ミレール編、岩波文庫、2020年。

荒谷大輔・小長野航太・桑田光平・池松辰男『ラカン『精神分析の四基本概念』解説』、せりか書房、2018年。

中山元『フロイト入門』、筑摩書房、2015年。

クリスチャン・メッツ『映画と精神分析 想像的シニフィアン』(鹿島茂訳)、白水社、1981年。

千葉雅也『現代思想入門』、講談社学術文庫、2022年。



[1] アラン・ロブ=グリエ監督/脚本『不滅の女』、ザジフィルムズ、1963年、0:00:29-0:02:27。

[2] アラン・ロブ=グリエ監督/脚本『不滅の女』、0:02:28-0:03:27。

[3] 金坂健二「ロブグリエの「不滅の女」と内部のシネマ」『映画評論』、第20巻6号(1963年)、45頁。

[4] ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』(宇野邦一/石原陽一郎/江澤健一郎/大原理志/岡村民夫訳)、法政大学出版局、2006年、140頁。

[5] アラン・ロブ=グリエ監督/脚本『不滅の女』、0:03:28-0:03:55。

[6] アラン・ロブ=グリエ監督/脚本『不滅の女』、0:23:30-0:26:07。

[7] アラン・ロブ=グリエ監督/脚本『不滅の女』、0:27:18-0:28:01。

[8] エドワード・W・サイード『オリエンタリズム』(今沢紀子訳)、板垣雄三・杉田英明監修、平凡社、1986年、171頁。

[9] アラン・ロブ=グリエ監督/脚本『不滅の女』、0:07:59-0:08:14。

[10] アラン・ロブ=グリエ監督/脚本『不滅の女』、0:16:40-0:17:07。

[11] アラン・ロブ=グリエ監督/脚本『不滅の女』、0:03:49-0:04:39。

[12] アラン・ロブ=グリエ監督/脚本『不滅の女』、0:04:40-0:05:16。

[13] アラン・ロブ=グリエ「ロブグリエによるロブグリエ」(三浦信孝・福崎裕子訳)、『ユリイカ』、第28巻12号(1996年)。

[14] 荒谷大輔・小長野航太・桑田光平・池松辰男『ラカン『精神分析の四基本概念』解説』、せりか書房、2018年、71-74頁参照。

[15] ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念(下)』(小出浩之・新宮一成・鈴木國文・小川豊昭訳)、ジャック=アラン・ミレール編、岩波文庫、2020年、138-139頁。

[16] ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念(上)』、182-183頁。

[17] アラン・ロブ=グリエ監督/脚本『不滅の女』、0:07:19-0:07:41。

[18] アラン・ロブ=グリエ監督/脚本『不滅の女』、1:11:50-1:12:18。

[19] アラン・ロブ=グリエ監督/脚本『不滅の女』、1:31:20-1:31:52。

[20] アラン・ロブ=グリエ監督/脚本『不滅の女』、0:36:17-0:37:49。

[21] アラン・ロブ=グリエ監督/脚本『不滅の女』、1:03:04-1:05:06。

[22] アラン・ロブ=グリエ監督/脚本『不滅の女』、0:16:40-0:17:07。

[23] アラン・ロブ=グリエ監督/脚本『不滅の女』、1:13:57-1:14:34。

[24] アラン・ロブ=グリエ監督/脚本『不滅の女』、0:26:30-0:26:45。

[25] アラン・ロブ=グリエ監督/脚本『不滅の女』、0:15:10や0:26:05など参照。

[26] アラン・ロブ=グリエ監督/脚本『不滅の女』、0:13:11-0:13:15や1:13:05-1:13:07など参照。

[27] 中山元『フロイト入門』、筑摩書房、2015年、245頁参照。

[28] 中山元『フロイト入門』、244-246頁。

[29] アラン・ロブ=グリエ監督/脚本『不滅の女』、1:36:43-1:38:32。

[30] アラン・ロブ=グリエ監督/脚本『不滅の女』、1:08:10。

[31] アラン・ロブ=グリエ監督/脚本『不滅の女』、1:38:33-1:39:08。

[32] アラン・ロブ=グリエ監督/脚本『不滅の女』、1:37:49-1:37:57。

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