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たくさんの出会いと別れがあったあの夏へ。「ぼくのなつやすみ2」の素晴らしさを改めて振り返ってみる。

気付けば早いもので7月に突入。3月後半から自粛生活を余儀なくされ、特段季節を感じるイベントや行事を体験することなく、いつの間にか7月後半に突入してしまった。未だかつてこんなにも季節感のない春~初夏を過ごしたことがあっただろうか。長い梅雨の真っただ中ではあるが、自分が一番好きな季節である「夏」に差し掛かったというのにその実感が全くない。

そんな時、ふと「夏」を意識する出来事があった。それは、自分が昔から好きでよく見ているゲーム実況者でもあるジャック・オ・蘭たんさんが「ぼくのなつやすみ2」の動画をアップし始めたことである。

自分の人生の中でも一番といっても過言ではないほど、多大な影響を受け、何度もプレイし、心に大切な思い出として残り続けているゲーム、それが「ぼくのなつやすみ2」だ。

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改めて大人になってからこのゲームをみてみると、不思議なことにまた少しずつ感じることが変化していたり、新たな気付きがあったりと発見が多かった。自分の備忘を兼ねつつ、なぜこんなにも心に残り続けるゲームなのかを簡単に書いていこうと思う。

度重なる台風や水害、そして今はコロナで日本の夏らしい夏を感じることが難しくなってきた時代だからこそ、プレイしてほしいゲームなので、少しでも興味がでた方はぜひプレイしてみていただきたい。(プレイ環境がなかなか難しいのが難点だが…)


あらすじ

まずは簡単にあらすじ。舞台は昭和50年の8月。小学三年生の男の子「ボクくん」は母親が臨月のため、夏休みの間だけ伊豆半島の海に面した田舎町「富海」にある親戚の家に預けられる。ここで様々な人と出会いながら気の向くままに行動し、夏休みの1か月間を過ごすという至ってシンプルな内容だ。

一か月間を過ごすのが目的のため、もちろんクリア条件などは一切ない。またほぼすべてのイベントや行動がプレイヤーに委ねられているため、プレイヤーによってどんな夏休みであったのか、大幅に変わってくるというスタイルのゲームである。ゲーム内イベントを全てこなすことも可能である一方、ただひたすら釣りや昆虫採集、素潜りに興じるだけの夏休みにすることも可能なのだ。どんな夏休みを過ごすかはあなた次第という、かなり自己投影できるゲームだといえる。


プレイヤーは小学校三年生

このゲームを語る上で欠かせないことは、主人公が「小学三年生」であるということだ。ジュブナイル系の作品など中高生が主人公になることは多いが、小学生が主人公となることはなかなか珍しいのではないだろうか。実は「小学生であること」がこのゲームではかなり重要なポイントになっている。

みなさんもぜひ小学校3年生だった頃を思い返していただきたいのだが、休み時間や放課後は友達と公園など外で活発に遊び、なんでも知らないことに興味や疑問を持ち、そして何より、自分より歳が上の人間に対して”大人である”ことの憧れを多少なりとも感じていたのではないだろうか。たくさん接して背伸びするのに必死だけど、大人たちの世界に踏み込めるのは一瞬で、わからないことが多いながらも、それでも新しいことに触れられる喜びを感じる…そんな毎日だったのではないだろうか。

このゲームはまさにこの視点で話が進んでいくため、出会った人々は小学三年生への話し方で接してくる。わかりやすい言葉遣いだけど、核心的なことは話してくれない、けれども子供だからわからないだろうと、詩的な表現で心の内側をほんのりとみせてくれる。だからこそ、子供ゆえの視点で登場人物たちと接していると、みんな愛おしくてたまらなくなるのだ。しかもこんなのほほんとした世界観のゲームにも拘わらず、複雑な事情を抱えた登場人物が実は多かったりする。

進学タイミングのずれで疎遠になってしまった幼馴染、互いに不器用で長年仲直りができていない親子、富海に来た理由と正体を隠している女性、お盆の時期にだけ現れる少女などなど…。きっと大人だったら深い関わりは持てないし、キャラクターたちの内面を知ることは難しい。だからこそ主人公は子供である必要があり、プレイヤーは子供の視点で物語をのぞいて、大人の思考で読み解いていくというゲームならではの体験ができるのだ。

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それこそ連続ドラマになるくらい作りこまれた登場人物たちの設定があるのだが、この作品ではあえて事細かに解説・展開するような、そんな野暮な見せ方はしない。複雑な設定があっても、それをあくまで”子供の視点でみせる”ことに徹底しているのだ。ボクくんの目でみたことを、きっとこういうことなんだろうなあと思いを巡らせ考える、そんな小説のような思考と余韻を楽しむのがこの作品の中でも群を抜けて素晴らしいといえる要素ではないかと思う。

登場人物たちが紡ぐ言葉のひとつひとつが、プレイヤー自身の心に波紋を残し、不思議とじんわり響いてくるのである。日本らしい美しい比喩や婉曲表現を交えた小説を彷彿とさせる台詞を大切にかみしめて聞きたいと思うくらいには、目に見えない大切なものが詰まっているような、そんな気がしてならないのだ。それくらい各キャラクターの台詞はとてつもなく繊細で、隅々までつくりこまれた”究極の表現力”を至るところで感じた。正直、自分のなかでここまで豊かな表現がふんだんに使われたゲームは他にないとすら思う。


いわゆる「日本の田舎」だけではない、独特な風景・美術デザイン

この作品のゲームデザイン・美術がすばらしいのは、いわゆるテンプレート化された「古き良き日本の原風景」ではないところである。誰しもが「懐かしさ」や「ノスタルジー」を感じることができるのはもちろんなのだが、それだけでは終わらない。特に靖子の家など、昭和50年時代にはおそらく珍しいであろうレトロモダンな建築デザインも登場している。

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古さと新しさが融合したデザインには理由があり、靖子の父が天文学が好きだから天文台のような家をつくったというキャラクターの持つ背景がある。こういったスパイス的要素がテンプレート化された原風景にオリジナルの要素を加えており、さらにゲームの風景・美術を際立たせている。

これで靖子の家まで昔ながらの造りであったら、ここまでゲームマップのメリハリを感じなかったかなと思う。靖子はこのゲームの中でもかなり重要なポジションを担っているため(第二の主人公だと思う)、この場所に何度も足を運ぶことになるのだが、ゲームイベントがなかったとしても、何度も足を運びたくなるように想起させていると感じるため、ゲームデザインとしてもかなりの成功例なのではないだろうか。


没入感を高める環境音と音楽

このゲームのBGMは基本的に環境音がベースとなっており、重要なイベント発生時など特別な時のみ専用のBGMが流れるといった仕組みになっている。そのためボクくんが駆け回る場所にあわせて、虫の声や川のせせらぎ、そして波の音などが響いており、よりプレイヤーの没入感を高めているのだ。夕方になると町全体が茜色に染まり、どこか物悲しいひぐらしの声が染み渡る…。

特にこの夕方の演出は素晴らしく、スタッフもかなり気合を入れてつくりこんだのではないかと思う。たまに芳香が茜屋の前で「アルハンブラの思い出」をアコギで弾いているのだが、これがまたイイ…。日が傾き海も建物もすべてが茜色に染まった中、アコギの切ない音色が染み渡る…。この最強の組み合わせがとても心地よく、ついついベンチに座って聞き惚れてしまうことがあった。また驚くべきことに、ここで海に入ってもきちんとギターの音色が響いているのである。水の中だからすこしこもって遠くに聞こえるのだが、夕日が差し込む海の中からかすかに響くギターの音色を楽しむ…そんな粋な演出を小学生が主人公のゲームでやるのかと正直かなり驚いた。

そしてこのゲームのBGMセンスは、まだまだこんなものではない。プレイヤーの誰しもが好きであろう、夜の靖子の家BGMである。サティのジムノペディがレコードでかかっているのだが、これがもう最強にエモいのだ。先ほども述べたように靖子の家は少し特殊な形状をしており、窓が壁から天井にかけて張り巡らされていたりとかなりオシャレなのだが、夜はそんなたくさんの窓から青白い月明かりが差込み、涼やかな風がカーテンを揺らしている。そんな空間に静かに響き渡るジムノペディのレコード。驚くなかれ、この空間をつくっているのはまさかの高校一年生なのだ。そんな大人びた靖子お姉ちゃんは、大人になった今でもずっと自分の「お姉ちゃん」として心に残り続けており、最高の夏の夜にはジムノペディをかけている。


毎日が宝石だった、あの夏へ。

ひと夏の思い出、などと言われるように、夏は一番生命が輝くエネルギーにあふれた季節である反面、その輝きが途絶えたあとの儚さも持っている。たった一週間の命を懸命に輝かせ、あっけなく死んでいく蝉。元気いっぱいの子供たちが一年に一度死者をお迎えするお盆。この作品ではそんな生と死を意識させるイベントが所々で用意されている。

線香花火のような、蛍の光のような、そんなぎゅっと輝いたとおもったらすぐに消えてしまう…切なくも儚い美しい輝きをもっているのが誰しもの心にある「夏」なんだと思う。だからこそ昭和生まれだろうが平成生まれだろうが関係ない、強く輝いてはうっすらと消えてしまう、そんなたくさんの大事な出来事と思い出がつまったぼくなつの夏が好きなんだ。

「毎日が宝石だった。」

そんな毎日を追憶するために、きっと何年後、何十年後もこのゲームのことを思い返すのだと思う。




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