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RPGが教育にいいという話:Multiverse - Role-Playing Games as an Educational Discipline

諸事情でいったんNYUから帰国しており、その間普通に某ビジネスゲーム会社で働いたり、ゲーミフィケーション系のアプリ開発に関わったりしていて(これらの話もいつか書きたい)、すっかり論文を読まない期間が長くなってしまったので、リハビリも兼ねて読んだ論文の感想やらそれに関連する話しやらを書いていきたい。と言いつつ最初に取り上げるのは寄稿なのだが。

Multiverse - Role-Playing Games as an Educational Discipline


日本で「RPG」と言うと、ほとんどの場合連想されるのはファイナルファンタジーやドラゴンクエストなどのデジタルゲームだが、ことアメリカやヨーロッパにおいては、複数人が集まってやるテーブルトークPRGが連想されることが多い。特にアメリカでは、テーブルトークRPGが再流行しはじめているらしく、「ゲームマスター」と呼ばれるゲームを回す役割の人が職業としても確立されるほど人気を博していると聞く。以下、紛らわしいのでテーブルトークRPGを「RPG」と呼称する。

この寄稿では、そんなRPGが持つ教育効果について、「マルチバース」をキーワードとして取り上げている。RPGの特徴のひとつは、ゲーム内の「キャラクター」としてさまざまなアクションをとったり他のキャラクターと交流することと、「プレイヤー」の一人としてゲーム処理をしたり仲間と話し合ったりすることの両面があることだ。つまりRPGをするときは、少なくとも2つの世界(=バース)を意識せざるをえない。ではなぜそれが教育にいいのか?

著者の主張を乱暴にまとめてしまえば、それは「そもそもこの世界がマルチバース的」ということにつきるのだろう。そのことを理解するうえで、RPGのもつ構造が適しているというわけだ。物理的にはたしかに1つの世界と言えるかもしれない(それすら反論がありそうだが)が、私たち一人ひとりが物語を紡ぐ生きものであるがために、世界は1つであることを許さない。それはいわば、ニンテンドースイッチというハードウェアがある中で、無数のゲームが存在しているようなものとも言える。

そういうとき、自分の認識している世界しか知らないというのは、シンプルに視野を狭めるし、他者理解も阻害する。また、RPGという日常生活とは異なる世界で遊ぶことにより、自分たちの世界のルールや構造のユニークさや偏りが逆照射されるという効果も期待できるだろう。私たちは比較をすることで、物事の理解度を高める。いわんや世界をや。

だからいくつもの世界を疑似体験できるRPGは、単に他プレイヤーとのコミュニケーション力を高めるということ以上の意味を持ってくる。そこには、三人称の視点を付与してくれるのみならず、複数の「一人称の視点」をも提供してくれるポテンシャルがある。

これはRPGに限らず、多くの優れたドラマや映画、あるいはデジタルゲームにおいても共通していると思うが、直接集まってロールプレイをするRPGは、そこに自らの身体性が上乗せされるので、より効果が期待できそうだ。

ただ、著者が指摘するように、そこにはしっかりとした「構造」がなければならない。つまり物語として破綻しておらず、ある程度私たちの生きるこの世界の相似形である必要がある。そうでなければ、物語を通じて自分たちの視点を見つめ直すことも難しい。類似の世界や人びとを体験するからこそ、自分の生きる世界や自分自身を見つめなおすことができるからだ。RPGが物語という形式を取るのは自明のように見えるーー物語のないRPGはおそらく存在しないーーが、結局のところなにかを演じる(ロールプレイ)際には舞台が必要であり、その舞台はある種の物語を伴うものということなのだろう。

もちろん、著者の言うようにすべての子供にとってRPGが最も適した学習環境とは言えない。ただ、日本においてももう少しRPGの持つポテンシャルが注目されてもいいかなと思う。実際、ある程度舞台設定が与えられたうえで、なにかの役になりきってアドリブをするというRPG的な能力は、アメリカ人エリートの持つスピーチやディベート能力の高さに関連しているような気もするので。


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