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「自然な一手」と「勝負の一手」

本日は、将棋と人生を絡める(いつもの、少々無理のある)お話をさせていただきます。


将棋は一手づつ交互に駒を動かしていくゲームなので、基本的には相手の指した手を見て、こちらはそれに対応する次の手を指すことになる。(対戦型のボードゲームはたいていそうだけど)

ゲームの序盤は互いに駒組み(陣形作り)をするので、互いの駒はぶつからないのだが、陣形が定まってくると、駒と駒がぶつかる段階となる。そうなると将棋は中盤戦へと移行する。

そうした駒がぶつかり合う局面となってからは、主に二種類の手があるとされる。

それが、「自然な手」と「勝負手」である。


自然な手、もしくは自然な一手とは、指し手の流れが自然という意味合いであり、おおよそ誰もが納得できる手のことを言う。局面が良い、もしくは均衡している時には、無理のない自然な一手を積み重ねていくのが良いとされている。

しかし、局面が劣勢に立たされると、自然な手を指し続けても、相手も自然な指し手を続けていく限り、その差は縮まらない。

よって、相手に間違えてもらうような手を指したり、何を指したらよいか一目にはわかりづらい局面を作り出す必要が出てくる。

そんな時に指す手が「勝負手」である。


「見る将」の方なら聞き覚えがあると思うが、解説者が「勝負手ですね」とか「勝負手気味の手ですね」などと発言している場面は、必ず勝負手を繰り出す側は評価値が悪い方となる。

つまり勝負手とは、逆転を目指す「不自然な一手」であり、できることなら指すような場面にしたくはない。

そして、勝負手が通じないと、劣勢の度合いはより深まることになり、負けへと繋がってしまう。その意味で、勝負手とは、まさしく「勝負」を左右する一手ということになる。


さて、将棋のようなゲームではともかくとして、人生においては、無理のない自然な行動を取り続けたいと、願わずにはいられない。

朝起きて、仕事をして、ご飯を食べて、夜に寝る。休日には多めに寝て疲れを取ったり、趣味に没頭するなどしてリフレッシュをする。そんな自然な一手を指し続けたいと思う。

けれど、人生は案外と長くて、紆余曲折が付きものである。立場的に劣勢に感じる場面に出くわすこともあるし、追い詰められた状況に陥ってしまうこともある。人生はそれなりにピンチの連続なのだ。

そんな時には「勝負手」を放つ必要が出てくる。今の局面をごちゃごちゃにするような、事態の好転を目指すような、そんな渾身の勝負手を。


ただし、将棋と同様に、人生の勝負手がミスった場合には、それによって致命的なダメージを受ける可能性がある。ほんのかすり傷が、致命傷となりかねない。

だから、勝負手を指す場合には、破れかぶれではダメである。外から見れば破れかぶれに思えても、自分の中ではきちんと考え抜かれた一手でなければならない。

かの藤井聡太さんも、劣勢の局面では、勝負手を幾度も放っている。それが通ることもあれば、全く通用しないこともある。けれど、勝負手無しには劣勢をひっくり返せないのなら、覚悟を決めて指すしかない。

ただし、藤井さんが闇雲な勝負手を指すことは絶対にない。非常に読みの入った、相手の心情をきちんと計算に入れた、論理的な勝負手を指す。

そう、必要なのは、論理的な、考え抜かれた勝負手なのである。劣勢な場面こそ、考えることが求められるし、考えた後はエイやと勝負に出るしかない。


僕自身は、基本的に自然な一手を積み重ねつつ、その中でも幾度か勝負手を指したりして、今の局面にたどり着いている。まだ詰んでもいないし、かといって一局が終わる気配もない。つまり、対局(=人生)はまだまだ続いてくわけだ。

そもそも、人生に勝った負けたはないのだが、それでも黙っていては押しつぶされてしまうような場面が来ることもある。

そんな時には、とにかく闇雲な勝負はしないと決めている。ただし、考えた末にはきちんと勝負したいとも考えている。

勝負手を指すなら、それは渾身の一手でなければならない。そんな風に思いつつ、僕は今日も将棋の棋譜並べに、勤しむのであった。




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