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弱みではなく、強みに目を向けたい

若い頃、自分の弱みが気になって仕方が無かった。横の誰かと自分の能力を比べて、行動力がないとか、英語が下手とか、個性がないとか考えてしまい、焦燥感に駆られたものである。

学生の時は何かを目指す「何者」だったはずが、実際に社会に出てみると、全く「何者」でもなかったことに気が付かされる。

新人時代から急に何かに貢献できるわけでもなく、できることよりも、できないことの方に目が向いた。あれもできない、これもできない。それに比べてあの人は、あれもできて、これもできる。

そんな風に赤の他人と自分の能力を比べて、卑下して、そして落ち込む日々であった。


そんな社会での落ち込んだ気持ちは癒してくれるのは、学生時代の仲間たちとの交流だった。

基本的に同年代の友人とは同じような境遇にあるわけで、何の気兼ねなく、学生時代仲良かった奴らと、毎週末のように集まって、飲んで、食べて、バカ話に花を咲かせることができた。

休日だけは「社会」から離れて「モラトリアム」に戻り、何者でも無くなった自分のことを忘れて、同じような立場の友人と楽しい時間を過ごしたのである。


しかし、友人たちの間にも、少しずつ「格差」が出現してくる。仕事で大役を任される者、結婚・出産と家庭を築き上げる者、世の中に作品を送り込んでしまう者・・。

友人が次々と武器を身につけていくのを横目にしながら、焦る自分が顔を見せる。自分には何もない、彼らのような強みがないと、心が急くのである。


いくつかきっかけがあるのだが、ある時フッと、自分には「強み」があるのではないか、と思う瞬間が訪れた。もしかしたら、この点で人に勝る可能性があるのではないかという、ある種の希望が出てきたのである。

僕が苦心して見出した強み、それは僕がそれまでに獲得してきた「一般性と特殊性の掛け合わせ」によって、生み出されるものであった。

例えば、自分はオタク的素養が強いのだが、それを前面に出しても社会では役に立たない。けれど、そのオタク的知識を、一般的に分かりやすく説明すると、ビジネスのヒントに繋がるという反応が貰えたのである。

何か物事に意見を述べるときにも、自分のオタク的観点を盛り込むことで、人とは別の切り口の発言をできるようになった。

話が面白いという反応が出てくると、より面白く伝えるために話し方を工夫したり、ネタを増やそうと勉強したりするようになる。

こうなると、途端に好循環がやってくる。話が面白い、ユニークということで、周囲から個性が認知されて、仕事がしやすくなっていくのである。


客観的にみて、僕は何か分かり易い技術的なものは一つも獲得できずに50歳近くまで来てしまっている。英語は相変わらず使えないし、プログラミングができるわけでもないし、会計の資格も持っていない。

では仕事において使えない人間かというと、そうではない。僕でしか話せない話題があり、僕ならではの面白く伝える話法がある。人の意見を傾聴して、僕ならではの観点を戻すことができる。

分かり易い武器は持っていないけれど、戦うことはできる。実際に僕は戦ってきたのである。


今となっては、できないことに目を向けても仕方がないと思う。もう、トラックは運転できないし、流行作家にはなれないだろう。けれど、僕ができること、人々に貢献できることはある。

自分の弱みではなく、強みに目を向けたい。強みを生かして、自分が伸び伸びと輝ける環境を作りたいと、切に願うのだ。




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