小学生が死について哲学したら
こんにちは。
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私は小学生の頃はあまり外で遊ぶ子供ではなく、家で天井を見ながらボーっとあれこれ思索を巡らせるような子供であった。
床と天井が逆だったらどこでどうやって遊ぼうだとか、ドラえもんの道具についてだとか、宇宙についてだとか。
その後、この時の経験が生きてか物理が得意になり、それを活かした仕事が出来ている。人生何が役に立つかわからない。
その中のひとつとして死んだらどうなるかということも考えた。
まず考えたのが寝てる時と変わらないのではないかということである。
それなら、それほど悪くない。
何しろ不眠症で常に身体がだるかったので寝たりごろごろすることが好きだった。さらに夢の中で遊ぶことも出来る。
しかし、少し考えて夢を見たり思索する脳自体がないのだから、意識というものがないことに気づく。
身体も意識も何もない無。
しかし、それは生まれる前も同じではないか。
その時、自分はどうしていたのか。
こうしたことを考えていたら恐怖で2日間眠れず
3日目に意識が飛ぶように熟睡した。
そして、その時の恐怖は消え去っていた。
どういったことを考えていたのかは記憶にあるのだが
そこに付随した感情が完全に抜け落ちていた。
そこで私は悟った。
死についてあまり深く考えすぎると生きていけないのだと。
身体の安全装置が起動して考えることを拒否したのだと。
それから、そういったことは知的好奇心に導かれて考えはするが
そこまで深く考えるのは避けるようにしている。
タイトル不明の小噺で下のような噺がある。
死んだあとのことなんて、これくらいで十分なのかもしれない。
おあとがよろしいようで。
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