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花はグレートマザーなのか?〜「おおかみこどもの雨と雪」評

「おおかみこどもの雨と雪」は2012年似公開された細田守監督による劇場版長編映画第2作。そして現在において細田守の最高傑作である。

細田守作品というのは、公開されるやいなや賛否が分かれる事が多い。その一因として、氏の作品における「一面性」がある。彼のアニメーションにおいて影がなくフラットに描かれる登場人物のように、作品に登場する人物や場所には、予め「意味」と「価値」が前提としてあり、まるでそれ以外の価値観を認めないかのようにある意味押し付けがましく感じてしまうことも多い。例えば「サマーウォーズ」での「田舎」や「親戚」といったテーマは、強固なまで強く、善性に傾いており、一方でそこに当てはまらない人々というのは、立場すら与えられない。「サマーウォーズ」では妾の子である侘助が親戚連中から爪弾きにされており、ストーリー上は最終的に和解へと向かうが、和解をするかしないかというのは体制側である親戚の胸三寸であり、侘助はそれに傅くしかないという強力な家父長制権力による征服、のようにすら見えてしまう。

本作で批判のやり玉に挙げられたのは主人公である「花」の「グレートマザー」ぶりであった。国立大学に奨学金で通う花はそこで肉体労働者である「彼」と出会う。そして妊娠し子供を持ち、さらに彼が亡くなった後にもシングルマザーとして田舎で自活していく。彼女の振る舞いは純真で献身的で、まるで「母性」の体現者のように見えるだろう。そしてそれに対しての反発が起きるのもとてもわかる。こんな母親いるかよ、というツッコミも妥当だし、なにより「母親はこうあるべきだ」と言われているようでムカつく、というように受け取るのもむべなるかな。

しかしこの話はそのようにみれば偉大なる母の一代記のように見えて、それだけでは収まらない、なにか不穏なものが常に立ち込めている。実は多くの彼の作品の批判者はその外側の不穏さの影を直視したくないが故にあえて一面的に反発をしているフシすらある。

花は二人の子を生む。長女の「雨」と弟の「雪」だ。花はつまり「母と娘」の関係と「母と息子」の関係を持っている。同じ親子関係において同性同士であることと、異性関係であること。それによって関係性は大きく異なっている。ここで主な比重を与えられるのは異性である「雪」との関係だ。雪は不登校児であることも相まって、常に花は彼に注意を向け続けている。そしてそれは亡くなった父親、つまり花の恋人であった彼の影を投影してもいるように見える。そうでなくとも母親と息子の関係というのは難しく、特に母親から過干渉を受けるというパターンは現実でも多い。よく言われるのが「母親が息子を小さな恋人にする」というパターンである

本作における花と雪の関係性も、不登校児という部分を考慮しても花は息子である雪に過干渉的なように見える。さらに言えば父親であった「彼」が亡くなる直前はほとんど省略されていて描かれていないが、この夫婦が最後まで円満であったかどうか疑問が残る。父親は育児に参加をしているようには見えなかったし、花は彼が外で何をしていたかを知らないような様子であった。花の振る舞いはその父親との喪失した関係性を取り戻そうとしているようにも見える。姉弟で喧嘩が起きたあとも花は圧倒的に傷つけられた姉である雨よりも加害者である雪のほうをみる。

そして、雨と花の関係である。母と娘。親子でありつつ同じ同性でもあるこの関係性は多くの作品で描かれる問題でもある。興味深いのは、この映画の語り手はこの長女である「雨」であり、彼女の視点から描かれた母の物語だということだ。この時期の芥川賞受賞作品は「乳と卵」「爪と目」「スタッキング可能」など、女性作家による母親との関係性を描いた作品が多かったのもあり、本作を「娘から見た母の物語」としてみると、前述するようなグレートマザーの一代記とは違うものが見えてくる。

物語の終盤、雨は台風の学校で同級生である藤井 草平と取り残される。草平はかつて、雨によって怪我を負わされた際、彼の母親が激昂し雨を問い詰めに来たという出来事があったのだった。しかし、草平の母は再婚し、妊娠したため、草平は「もう助けに来ない」という。これはまさに、独身時には「小さい彼氏」として過保護に息子を扱っていた母が、新たな恋人である再婚相手を得たことによって興味がなくなってしまったということを示している。見方によってはネグレクトすら感じさせるシーンである。

しかし考えてみれば、学校に取り残された子供を助けに来ていないのは草平の母だけではない、同じ境遇でもある雨もそうなのだ。彼がネグレクトされているのならば、雨もまたネグレクトされていると言えるのではないだろうか。実際、本作においてこのとき花は息子である雪に対する対応に必死になっており、取り残された雨のことなど一顧だに、本当に一顧だにしていないのだ。

雨は中学に上がるとそのまま全寮制の学校に進学し、母と住まいを別にする。そこに理由を語るシーンは全く描かれていないが、この親子関係が、必ずしも円満ではなかったという想像を挟むことは不可能ではない。

繰り返しになるが、本作は娘である雨の視点によって語られている。それは「偉大な母の一代記」としてではなく「なぜ母は私に対してああだったのか」という疑問から語っている物語として見ると、この話の違った一面が見えてくる。そこから見えてくるのは「自分の偉大な母の物語」などではなく、「亡くなった男の面影に執着する一人の女」としての花の物語である。そして雨は草平と関係を結ぶことでその母親の姿を認め、理解する。くりかえすが、本作はグレートマザーの物語などではない、むしろ、「母親」という無償の愛を注ぐような存在はなく、個々人のエゴの関係性によってしか人は関係し得ないという様を描いているように見える。そして実は細田守が描く「(疑似)家族」というのは全てこのテーマが一貫してあり、実はフラットになっているのはエンターテイメント的に味付けされた独善的な価値観ではなく、そういった「家父長制」や「ムラ社会」がフラット化した先にある家族や田舎が、いかに個々人の危うい了解のバランスだけで成り立っているかという不穏さである。それは前述した「サマーウォーズ」での親戚関係、「バケモノの子」における師匠と弟子の疑似親子関係、兄妹関係を逆転することでまさに上下関係を無効化させ、その後に兄の役割を了解させる「未来のミライ」。さらに言えば途中で降板させられた「ハウルの動く城」ですらその痕跡は残っている。その一面の裏にある残酷さが際立っているのが本作であるがゆえに、私は「おおかみこどもの雨と雪」を細田守の最高傑作と考えるのだ。

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