ポストモダン焼きとしてのそば飯〜鉄板の上の哲学史

*この原稿は2014年に発刊された「関西ソーカル vol,2」<http://onomatopedaijin.com/socal/vol2/>に掲載されたものをそのまま掲載しています。また、原本にあった注などを削除しているため、ぜひお読みになりたい方はご注文ください

この論文では神戸のソウルフードである「そば飯」をポストモダン焼きとして提示することで、プレモダン焼きからモダン焼き、そしてポストモダン焼きへと至る道筋を辿る。なお、ここでは思想史的な厳密性を追うことはせず、逆に、論点の明確化のため暴力的とも言うべき単純化、ポップ化を超えて、「B級」化を行う。それ故、ここで並べられた固有名にはインデックス以上の意味は無い。

まずポスト・モダンを語る前に我々はモダンについて知らなければならない。モダンとはつまり「お好み焼きの上に焼きそばを乗せた料理」だ。これを1つの近代の完成として提示することでモダン社会を読み解いていこう。
ここで象徴されている2つの要素ー「お好み焼き」と「焼きそば」がそれぞれ、「意志としての人間people」と「動物としての人間human」を象徴していると考えよう。そうするとこれらが人工/自然や言語/本能と対応していることにも留保したい。

お好み焼きを焼くーデカルト
最初にプレモダンとして「お好み焼き」があったーーーしかし、この命題はミスリーディングである。「お好み焼き」というテーゼがそもそも、お好み、つまり「何でも自由に(自由意志)」焼くことが許された料理である以上、それ自体を定義することが出来ないのだ。
その「おこのみ焼き」への最初の懐疑を行ったのが、デカルトであった。彼はこのお好み焼きが、果たして本当にお好みによって焼かれているのだろうか、もしこれが自発的な自由意志に基づいて焼いていないとしたら、それはお好み焼きではなく「お好み焼かれ」ではないか。そういった懐疑の果てに、確かに自分はお好みで焼いているのではないかもしれない。しかし、そう思っている自分が焼いている以上、どんなかたちであれお好み焼きは存在するのだという結論(cogito ergo sum.)に至った。熱い鉄板の上にタネを落とし、そのまま放っておいてもお好み焼きの原型はできるように、お好み焼きとはある種の自然状態として発生するのだとした。ここから近世(モダン)哲学は始まった。
その熱い鉄板の上に落とした近世哲学というタネを、焼き上げてソースを塗ることで焼き上げ、完成したのがカントである。デカルトの懐疑はたしかに、お好み焼きの下地は完成させた。しかしその問いだけではお好み焼きの自律性を確立しただけで、自由であればいいのなら、例えばそれは鉄板焼き全てがお好み焼きに含まれるのかという問題が生じた。


お好み焼きの完成ーカント
その困難に対して、なるほど、たしかにお好み焼きには「〜あるべし」という定義は存在しない。それゆえ、豚玉、もち、エビや納豆などなんでも自由に乗っけることができ、それは全て「お好み焼き」という定義に統合される。しかし、それらの自由性は、「ネタの上に乗っけたもの」という下地に限定されており、何を乗っけてもいい下地、いわばアプリオリな面に関して言うならば、お好み焼きとは小麦粉とたまご、そしてキャベツによってつくられたつなぎ、その上に乗っかったものすべてのみを表象するものであると考えたのがカントである。カントはこの下地(ネタ)を現象界と名付けた。そのネタをはみ出した肉は、それはお好み焼きではなく、鉄板焼きであり、お好み焼きの範疇を超えてしまう、我々は、ねたの上にかかっているソースの範囲しか認識できないのだ。これらの鉄板焼きの世界(物自体)とネタの上の世界を明確に区分することで、カントは近世の思想の下地を完成させたのだった。


・弁証法(アウフヘーベン)としてのモダン焼きーヘーゲル
ヘーゲルはそのカントの思想を弁証法によってダイナミックに更新させた。カントの理解では、表象に現れるもの(豚玉カ、エビお好み)を捉えることはなるほど可能である。しかし、それらと全く異質なもの、対立するものを置いた時、この下地では包括しきれないカオスが現出する。それが自然状態としての存在、焼きそばである。お好み焼(テーゼ)とすると、それに相対する概念として焼きそば(アンチテーゼ)を置く。当初互いは対立しあっているがやがて止揚(アウフーベン)され、それらを本質的に統合させた命題(ジンテーゼ)が現出する。ここでは、下地の上に焼きそばが乗っかり、内部構造が多層化され、共に焼かれる「モダン焼き」の登場によって、これらの概念は統合され、近代(モダン焼き)は完成に至った。

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