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少し暇そうにしてるキャラを連れ出したい〜ハルヒ・あまちゃん・まどかマギカ

(本作は2016年に「invert. vol.2」のために寄稿した文章の再掲です)

えっと、神野龍一です。以前twitterで「キャラの事を語りたい!」とつぶやいていたらinvertに寄稿させていただくことになりました。よろしくです。ちなみに、これは相手にファミレスで語りかけているような文体を用いて書いていくので、こういう語り方になっています。
ということで僕はキャラについて語ります。今、例えばイオンモールの中に入っているヴィレバンなんかに行くと、「ジバニャン」のぬいぐるみなんが所狭しと置いていて、「うおー妖怪ウォッチ流行ってんなー」と思わせるわけですが、妖怪ウォッチを知らない人もあの猫を見て、後々この猫が妖怪ウォッチに出てくる地縛霊の猫の妖怪(尻尾が2つあるのは妖怪猫又ですね)で、もともと交通事故にあって亡くなった(実はお腹に巻いてある腹巻きはタイヤの跡というけっこうエゲツナイ設定)なんかを知っていく。そういう手順の人も多いのではないか。例えば今はコンビニなんかですらアニメのキャラを使ったタイアップ製品を続々と出していて、そっちの方を先に知っていくという人はどんどん増えているのでは。

いわゆる文学を代表する「物語」はそうじゃなかった。最初に、作品を語るための「テーマ」があり、それを語る「設定」そこから「登場人物」が出てきて、それら周辺によってキャラ立ちをしていく。世界最古の文芸批評と言われるアリストテレス「詩学」にはオイディプス王の分析が書かれているんだけど、この話で大事なのは運命に逆らおうと行動しても、それに従ってしまう人間の悲劇性で、そのオイディプス王の人格(キャラ)は問題ではない、と語っている。

「キャラ」とはー伊藤剛による定義

ここまで自分は「キャラ」という言葉をなんの説明もなく使ってるので、もしかしたら「キャラ」を「キャラクター」を縮めただけの言葉で、意味することは同じだと思っている人もいるかもしれないので、説明すると、これは伊藤剛「テヅカ・イズ・デッド」での用語ですね。ここで、伊藤はキャラとキャラクターを区別するために、劇画原作者、小池一夫の言葉を引きます(厄介なのは、ここでは小池は「キャラクター」と言っているんだけど)

極端な言い方をすれば、コミックでは、作品名をあげて頭に浮かぶものは、キャラクターの絵と名前だけである。(小池一夫『小池一夫の劇画村塾』十頁、スタジオ・シップ、一九八五)

これをキャラの特徴として、その他の表現(ここでは主に文を主題とした物語)と差別化を行ってる。例えば、いわゆる文学といわれる小説作品、例えば村上春樹の「ノルウェイの森」であったら、それをきいて思い出すのは、冒頭、飛行機で頭を抱え込む「シーン」であったり、性「描写」あるいは「死は生の対極ではなく、我々の生の内に潜んでいる」といった「フレーズ」だったりする。それとは違って、ジャンプのマンガなんかを見ると確かに全員主人公の顔が浮かぶようにできてるよね。まあ作品名が主人公の名前になってるのがほとんどで、それに連想させられるというのもあるけど、それは逆にいかにジャンプが「キャラ」を重視しているかっていう証拠でもある。つまりこれだけマンガでは「キャラ」が中心に置かれているかという話ですね。(前述の村上春樹でいえば、「やれやれ」という一言はある意味でキャラ立ちしてると言えるかもしれません)

例えば伊藤は前述の中で宮本大人によるキャラクターの要素を例示していて、

①独自性 他のキャラクターと区別しうる特徴をもっていること。
②自立性・擬似的な実在性。1つの物語にしばられないこと(略)
③可変性。特徴・性格がある程度変化しうること。(略)
④多面性・複雑性。類型的な存在でないこと(略)
⑤不透明性。外から・他者から見えない部分(内面)を持っていること。(略)
⑥内面の重層性。(略)
(宮本大人「マンガにおいてキャラクターが『立つ』とはどういうことか」特集:キャラクターを読む『日本児童文学』二〇〇三年三−四、四八頁。略は筆者による)

ここで伊藤は、これら宮本が指摘した①〜⑥の要素のうち、⑤不透明性、内面と⑥内面の重層性を除いた①〜④の要素を「キャラ」の要素と理解するればいい、と語ってる。更にいうと最も重要なのが②自立性・擬似的な実在性。1つの物語にしばられないこと、だという。つまりキャラ自体は物語の外にでることができる。前述のジバニャンの人形とか、サマンサタバサからなめこまであらゆるものとコラボしてコラボビッチとまで言われるサンリオのハローキティなんかはキャラの代表といえるかもしれない。ここで重要なのは、「キャラ」自体は「内面をもたなくてもいい」ということで。たしかにキティちゃんに内面はないよね。キティちゃんにについて知ってることなんて、大抵の人は体重がリンゴ2個分とか、それくらいしかない。それら差異化によって生まれた記号の中に内面を描き出し、⑤〜⑥の内面を伴わせることをストーリーマンガとして成立させたのが手塚であるという話を後半で伊藤はしていくんだけど、それはまさに手塚の代表キャラである「鉄腕アトム」が「人の心(内面)をもつロボット(記号)」であり、そのことで世界と葛藤するということと符号しているというんだけど、全くその通りだよね。こういうことは、自分の行っている表現に自覚的、批評的である人はことさら強くて、押井守がほとんど必ず作中に「人形」を出し、人形が生きている「ように思われる」ことはどういうことか、という問いを作中人物にさせることで「絵が動く=アニメとは一体何なのか」ということを考えているわけだね。押井がかつてゴダールを「映画に自意識を持ちこんだように、自分はアニメに自意識を持ち込んだ」(勝つために戦え!)と語っている風に言うなら、手塚は「マンガに自意識を持ち込んだ」と言える。

一方、東浩紀の場合、キャラクターを「メタ物語」に求めていて、「複数の物語を横断して存在し、複数の運命をいきる」と定義してる。これは前述にある伊藤の「キャラ」と同じで、1つの物語世界から外れていることを意味しているけど、東浩紀の場合はそこに複数の物語を背負っていること。伊藤は物語から外れてもキャラになると考えている。円堂都司昭がデータベース消費を絡めて、キャラを「データベース消費」キャラクターを「物語消費」の水準であると考えている。この考え方は興味深いんだけど、自分はキャラそのもの「強度」に関して言うなら、その要素に基づいたデータベースも、キャラの強度については少し弱い、と思う。むしろ成功したキャラはここのパーツによるデータベースを必要とせずに、自立しているようにみえるからだ。たとえばハローキティや、任天堂のマリオなんかは最初は8bitとして成立していて、そこに意味は見いだせないよね。そこについてはまた考えたいところ。

「キャラクター小説」の誕生ー新井素子、『ロードス島戦記』

「主題」から登場人物を生み出していく「文学」に対して、キャラを中心に展開していくまんが・アニメーーー雑に言えば、こういうことになる。でも、このキャラを中心に物語を書き進める「キャラクター小説」というのが日本に生まれ、それが現在の「ライトノベル」の原型になっていく。例えば大塚英志「キャラクター小説の作り方」でそのキャラクター小説の祖を新井素子だとしてる。

こういうふうに「現実」を写生せずに「アニメ」や「まんが」を写生することで当たら数小説を最初に自覚的に作ろうとしたのは新井素子さんです。(中略)彼女はある新聞のインタビューで「ルパンみたいな小説を書きたかった」と答えています。ルパンとはいうまでもなくアニメ「ルパン三世」のこと(中略)
新井素子さんの思いつきは日本文学史上、画期的なことだったのです。誰もが現実のような小説を書くことが当たり前だと思っていたのに彼女はアニメのような小説を書こうとしたのです。(大塚英志、前掲著、二十六頁)

この新井素子が発明した「キャラを中心に物語を展開させる」というやり方、つまりキャラははじめに自立した存在としてあり、創作者はそのキャラクターに物語を与える、という形で小説を書き始めます。さらに新井は、そのキャラクターを作者本人からも切り離し、能動性をもった存在として描きます。ここで、東浩紀は「新井は、無生物のデータベースを家族として表象し、そこに能動性を付与する倒錯を抱えていました」(「セカイからもっと近くに」四三頁)と語ってる。

自立というよりも自律といったほうがいいようなキャラクターの立て方。それが新井素子の特殊性だといえる。さらにもちろん口語を多用した独特な文体を含めて、彼女の影響は後のライトノベルへ繋がっている。ちなみに、この文章の冒頭も新井素子リスペクトです。

さらに大塚は、ライトノベルの原型として『ロードス島戦記』を挙げる。大塚は、この中で本来これは『D&D』というTRPGゲームの遊び方を実況する形で、連載が始まったことを語っている。このTPRGには、予めルールと世界観を作った「ゲームデザイナー」、「ロードス島戦記」のキャラクターを割り振られたプレーヤーと、さらに大事なのは「ゲームマスター(以下GM)」という①前もってストーリーの背景や設定、大事な部分でのプロットを考えておく②そのテーブルトークRPGのルールを把握しておく。という役割で進行していきます。ここでGMは、キャラクターの声を聞きつつ、作品世界をエスコートするという役割をになっている。このGMの語る部分が地の文となることで、ライトノベルの形式は出来上がった。このGMの立場がそれまでの小説の「作者」と違うことは、キャラクター同士のやりとり次第で物語が二転三転し、GMが考えていたの物語の通りにはいかないこともある、というような相互干渉性を持っているところで、例えばそれはどう頑張っても最後には父を殺して母と交わってしまうオイディプス王のような強固なストーリー設定とは違うわけだ。
ここまででいわゆるキャラクター小説の作られ方、キャラというものについての説明を終えて、これを利用した作品の読み解きをやっていこう。

「キャラ」の自意識化ー涼宮ハルヒの憂鬱

大塚は同著の補講で、「キャラクター小説」という言葉が、編集部の中で確信犯的に使い出したのは、「涼宮ハルヒ」シリーズの開始ごろということを述べている。(三一七頁)これは重要で、その頃には「キャラクター小説」という形式が一般化し、それがジャンルとして認められており、作り手側も、それを意識しているという事を意味するからだ。なぜなら、「涼宮ハルヒ」シリーズこそ、これらの状況を自覚的に踏まえ、創りだされた作品だからだ、という話をしたい。
「涼宮ハルヒの憂鬱」について、説明する必要はほとんどないと思う。よね?「宇宙人と未来人と超能力者」を求めているちょっと変わった女の子が、実は世界の神のような存在で、集められた人とそれらには属さない平凡な男キョンが、ハルヒが巻き起こすトラブルに巻き込まれつつ日常生活を過ごす。という話です。とりあえず、ここではアニメ化され劇場された「消失」までの話を中心に語るので。
前述の手塚や押井が行ったような「表現形式そのものを問うようなあり方」を「自意識化」というとすればこの作品こそ、「キャラクター小説」そのもの、もっと広げるならそれ以降のマンガ、アニメと二次元、三次元化していく派生製品を含めた「メディアミックス」になる元である「キャラ」自身が「自意識化」したら、という問いを持っている、つまり前述したようなキャラクター小説の構造、そのものを批評した作品である(ちょうど『うる星やつら ビューティフル・ドリーマー』がアニメのループ世界を批評した作品だったように)、と考えているからだ。
この作品における涼宮ハルヒは三人(長門有希、朝比奈みくる、小泉一樹)からハルヒが超常的な存在であるという見解は一致していながら、それぞれ、違う認識を持たれている。この「差」というものをそれぞれの持つ「能力」とその「眼差し」から見てみよう。
長門、朝比奈、小泉の三人は、それぞれ「宇宙人、未来人、超能力者」としてそれぞれの能力を備わっている。それは、この作品世界における一種の「改変能力」として見ることができるだろう。
「宇宙人」長門有希の場合、作品内でまるで万能のように見える彼女は、いわばこの物語の「設定」を改編する能力を持つといえる。それは、ちょうど前述のTRPGにおける「ゲームデザイナー」の役割を担っている。これは、ちょうど作品の世界を作り出した「作者」に最も近い位置に存在する(つまり、「統合思念体」とは作者のことと解釈できる)彼女は世界の設定を改変することは可能だが、キャラクターそれぞれの意志に干渉することができない。(しかし「消失〜」を見た人はわかるように、意志の働くそれ以前に設定を改変させることができる)。


「未来人」朝比奈ミクルは、作品内でもあまり権限が与えられていないが、時間を限定的に操作することを作品内で可能にする。この改変は小説段階ではほとんど反映されることがないが、メディアミックスにおいてアニメ化した際には、第一話に「朝比奈ミクルの冒険」として登場する。


「超能力者」古泉一樹は、閉鎖空間への侵入という「空間」への改変をもつ、これはエピソード「孤島症候群」において、全ては古泉一樹が所属する「機関」によって用意された「舞台」であったこと。また学園祭においてまさに「舞台」に立っていたことから解釈できる。


そしてキョンは、言うまでもなく原作小説において「語り部」として小説内の地の文で読者語りかけてくる。これは「ゲームマスター」の立場であり、プレーヤーを誘導し、それを読者の前に可視化させるという立場をもっている。というより、キャラクターの側からすると、彼等はキョンの視点を通じて我々とつながっている、ということができる。ハルヒがキョンの顔を覗き込み、興味を抱くのは、その目線の先に読者、つまり僕達と、外の世界とのつながりを感じているからだ。ということができる。
じゃあハルヒは、というと、作品内においては、なんら直接的な形では物語に干渉しない。それは当然で、彼女は「キャラ」である。なぜ「涼宮ハルヒ」シリーズが「涼宮ハルヒ」という名前で存在するかというと、それはもちろん彼女が存在するからだ。彼女がいなくなるとそれはそのまま「ハルヒ」ではなくなる(当たり前だ)。だから登場人物は、彼女がこの世界に退屈しないように、手を尽くすのだ。彼女が中学生時代、UFOにSOSを送ったというのは示唆的で、エイリアン(文字通り「外部者」)にここを連れ出してほしいという意味なんだ。

そして、実は、この願いは現実に伝播してる。それはその後大量に作られたキャラクターグッズの類だけじゃない。特に、この作品で最も注目されたのはエンディング「ハレ晴レユカイ」ででてくる「ハルヒダンス」だろう。あのダンスがアニメーションから現実へと伝播して、多くの人に踊られたということが、ある種、彼女の願いの転移といえるんじゃないかな。

「旧約的」「新約的」

図1は前述の伊藤が、作品を中心に、ジャンルを切断面と仮定してジャンルのシステムを図示したものである。ちょうどいいので、この図に、「涼宮ハルヒ」の割り振りを当てはめると、こんなところ

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これを見ると彼等登場人物の三人はそれぞれゲームデザイナーの役割を分担してになっていることがわかる。ハルヒはこの世界では神(ちなみに、ハルヒって名前はヒンドゥー教の救世主「カルキ」から来てると思うのだけど、どうだろう)とされているけど、彼女がすることは世界に退屈して、壊そうとしたり、つなげたりするだけだ(「作り変えようとした」のは長門有希だ)。登場人物は、世界をちょっと作り変えたり、作ったりすることで神の機嫌をとって日常を継続しようとする。ちょうどこの関係は、旧約聖書における神と人間の関係に似ている。聖書でも「人間滅ぼしたい」というと、人間は神を一生懸命説得してなんとかやめるように、もしくは規模を小さくするようにして自分たちを生きながらえさせる。

その人々はそこから身を巡らしてソドムの方に行ったが、アブラハムはなお、主の前に立っていた。アブラハムは近寄って言った、「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。正しい者と悪い者とを同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」。主は言われた、「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」。アブラハムは答えて言った、「わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。もし五十人の正しい者のうち五人欠けたなら、その五人欠けたために町を全く滅ぼされますか」。主は言われた、「もしそこに四十五人いたら、滅ぼさないであろう」。(中略)「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します、もしそこに十人いたら」。主は言われた、「わたしはその十人のために滅ぼさないであろう」。主はアブラハムと語り終り、去って行かれた。アブラハムは自分の所に帰った。(創世記)

じゃあそれに対して、新約みたいな話ってあるの?と言われると、もちろんある。というか、そういう話のほうが多いんじゃないかな。変更できないデザイン(運命)上悲劇的な事態へと向かっていくキャラに対して、最後、主人公は解決策として、「デザインの改変」を行うことで、システムの問題から、キャラクター達を救う。

キャラ救済のための物語ー「あまちゃん」

キャラを救う。そのために物語が用意されている。これこそが、自分の言いたかったことで。今の物語はキャラを中心に、その救済のために物語を提示するようになっている。
例えばそれは、二次創作においてもそうだ。多くの同人作品において作り手達は、自分たちの欲望を投影しているだけのようにみえる。事実それはそうだろうけど、その動機自身、「キャラを動かしたい」という欲望がそのまま、キャラから発せられていると考えるなら?例えば本編においては脇役であったキャラを主役にするもの(「ハルヒ」なら「長門有希ちゃんの消失」なんかがそうだ)が、脇役が望んでいるものへ、作り手側が奉仕していると考えることができる。大事なのはここでいう「欲望」が例えば「登場人物がそうおもっている」というようなものではなく、もっと即物的なものであるということ。それは「キャラ」として生まれでた瞬間に存在するようなもので「この物語世界から抜け出したい」という「反応」と言ってもいいかもしれない。例えばこれを経験的に言うならば。授業中、教科書の端に書かれた落書きのキャラを書いたことのある人は多いだろう。そのキャラを描いた動機そのものが「この舞台(ここでは教科書やノート)への離脱願望」を投影しているからかもしれない。「キャラ」は物語のもちろん構成要素である一方で、脱物語への指向性を初めからもっているんだ。

そのことを特に自覚的に捉えている作り手の一人が、宮藤官九郎であると僕は思う。キャラと物語との関係に関して、ここまでそれを引き受けて考えている作家は、やはりクドカンを置いて他にないとおもうからだ。大塚英志は前述の著書で「木更津キャッツアイ」を分析し、そこに「終わらせたくない(成長したくない)」という物語に通底しているテーマと、しかし「余命が宣告されている(「死」つまり終わりが存在する)ぶっさん」というキャラクターを出すことで、「テーマ」を提示していると語ってる。ということで、自分はクドカンが脚本を担当した朝の連続テレビ小説「あまちゃん」の特に最終回。しかも、朝の時間の最終回ではなく、NHK紅白歌合戦の中で行われた第157話「おら、紅白でるど」を語ることで分析したいと思う。

あまちゃんの説明はあまりに長大になるので省くけれども、注視したいのは能年玲奈演じる主人公天野アキが「成長しない」ことを常に志向している、ということ。彼女は地味な生徒だった東京から岩手へ越していくとほぼ同時に方言を身につける。そして、その方言は東京に再び戻ってからも「変わること無く」訛り続ける。これは彼女自身がある種生身をもった人間ではなく「キャラ」を志向していると考えることができる。作中でも彼女は東京出身なのに訛っていることを指摘されることが多々あるが、これは一つの「偽装」のパターンだ。例えばミンストレル・ショーにおいて白人が顔を黒く塗ることで「黒人」を演じる。しかし実はこの白人は実際、ユダヤ人やヒスパニックといった、「マイノリティー」を出自としている。「黒人を演じていること」で観客に「黒人を演じている『白人』」として認識され、白人社会に参入できる。というような構図に似ている。彼女が方言を使うことで逆に東京へ戻ること。それはちょうどおなじ構造をしている。
実際、彼女は成長をほとんどしない。たしかに「海女」になり、「アイドル」になっていくが、「海女」はもはや地元観光の一環であり、それを生活の糧にするようなものではなくなっている。「アイドル」もまた、そもそもアイドルというものを定義しきれていない。2つに共通することは、「観客が存在しないといけない」ということだ。そしてその中でも、決して彼女はトップに立ったりといった、大きな成功を手にしない。
むしろこの物語において、成長や変化していくのは周りの人々だ。例えば彼女の母である天野春子は母との軋轢から地元を捨て、東京でアイドルを目指したがその途中挫折をし、という最初の設定から、母との和解。そして挫折の克服といった、古典的な物語構造にならって成長していく。

物語からの離脱ーユイの志向

実は、この物語において、もう一人対称性をもった「キャラ」が存在する。それが橋本愛演じる「足立ユイ」だ。彼女は天野アキとは反対に、地元岩手を出たことが一度もないのに頑なに方言を話そうとはしない。(一度物語中、ユイはヤンキーへと「変貌」するが、その後あっさりと以前の姿へ戻る。)その地元の中でアイドルとして祭り上げられ、実際に経済的な繁栄をもたらしたことから世界の中心として存在する。しかし、彼女自身は常にここの世界から出たい、東京へ行ってアイドルになることを夢見ながら、それを阻害され続ける。
それは、一方で彼女の運命として組み込まれている。彼女は、ストーリー内において三度、上京に失敗する。一度目は子供の頃、修学旅行へ行く前日に骨折(自身の肉体の破壊)二度目は、父親の危篤(家族の破壊)そして三度目は、2011年の東北大地震という、現実に起きた未曾有の出来事と重ねられることで、彼女は上京を断念する。
その構図は、世界の中心に据えられながら、当人はその世界の離脱への欲望、破壊性を抱えている涼宮ハルヒと似ている。
世界の破壊性と脱物語性、そしてキャラとしてのユイの救済という問題を、解決させたのがこの157話だ。
あまちゃん最終回で、アキは東京のNHKホールから東北にいるユイに声をかける。地元の人々は「ここから東京は遠すぎる」と笑う中、ユイは「すぐ行く」といってかけだして外へと走りだす。そして、オープニング映像が挟まれ、鉄拳のアニメーションが挿入された中で瞬時にユイは東京のNHKホールへ到着する。ここで、我々は彼等東北の人々が実は隣のスタジオで撮影されているセットで行われた「虚構」であるということを提示される。つまり、ユイは東京に行くために、「あまちゃん」という物語世界を破壊してしまうのだ。しかし、だからといって、ユイは橋本愛としてではなく、作中人物「足立ユイ」として現れる。なぜそれが可能なのかというと、「天野アキ」がNHK紅白歌合戦の中で存在しているからだ。こうして、この「二人が潮騒のメモリーズ」として劇中歌「潮騒のメモリー」は歌われる。その時、NHK会場こそが「あまちゃん」の舞台となっているのだ。それ故この後に登場する天野春子、鈴鹿ひろみは役名で登場する。
こうすることで、脚本家、宮藤官九郎はキャラの持つ問題「キャラの救済」と「脱物語性」を同時に行うという離れ業をやってのけた。僕はこれを見ながら、感動のあまり号泣した。
お、そろそろ字数が迫ってきた。最後に叙述トリックっていうわけでもないけど、実はこの文章のそこかしこの中に、「魔法少女まどか☆マギカ」への裏批評ともいうようなキーワードを挟んでいるので、是非読んでみてね。では!

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