シトロエンの孤独は続く
言葉にできないことを無理やり言葉に変換してきた。そんな仕事をしている。だけど今度ばかりはそれすらもできそうにない。でもなんとか今年中に残しておかないと心がはち切れそうで前に進めそうにない。
星屑の一つの気分はきっとこんな感じなのだろうか。チバユウスケがもうこの世にいないという事実をどう受け止めればいいのか教えてほしい。
3月に癌だと知ったときからなんとなく覚悟はしていた。僕の父もヘビースモーカーで50前に亡くなっている。THEE MICHELLE GUN ELEPHANTを知ったのは、その父を亡くした98年。受験勉強中に聞いていた深夜ラジオだった。
意味のない単語を結びつけて、自分たちのアイデンティティにするのは90年代のバンドの付け方だ。ロックは不良がやるもの、そんな風潮は根強く残っていて、楽器屋やレコード店、ライブハウスに通うようになった頃は随分怖い人がいて、ドアを開けるたびにドキドキしていた時代。(まぁそういう柄の悪いジャンルが好きな自分が悪いのだが。)
ナミキで仕立てたスーツを纏い、モノトーンで髑髏のアートワーク、録音は全て一発撮りでガレージロックをかき鳴らす4人の荒くれ者、最高にクールな存在だった。
チバの書く詞が好きだった。
高校生の自分にはよくわからない外国の地名や外国人の名前を羅列し、カタカナ英語をしゃがれた声に乗せてシャウトする、抽象的で文学的な世界観で紡がれたストーリーは、自分が体験したことのない世界を泳ぐことができた。
ハロー!ベイビー!サンキュー!バイバイ!
と、叫ぶだけで金が取れる唯一無二の声。英語をあえてカタカナにしたソリッドなトンマナが音楽性にもシンクロしていた。(もちろん目の前にすれば、さん付けで呼ぶのだろうけど)ファンの人がチバとかアベとか呼び捨てにするのも好きだった。
ライブを初めて体感することができたのは、2001年のTIBETAN FREEDOM CONCERTの時、ミッシェルはトリとしてゴッドファーザーのテーマで登場し、一曲目の"暴かれた世界"のあまりの音圧に度肝を抜かされた。人を殺しそうな尖り狂ったディストーションの洪水だった。
前代未聞の横浜アリーナのスタンディング、中断しまくりの豊洲のフジロック、Mステでのタトゥーのドタキャン、4弦が切れた解散ライブの世界の終わり、伝説はいろいろあるけれど、鮮明に覚えているのは、代々木のTMGE YOYOGI RIOTだ。当時はインターネットもまだそこまで普及していない中、当日まで場所は非公開で、新聞に載っていた指定された番号に電話をかけてナビダイヤルで指定された場所に行くと言う、スパイのようなUXを経過して学校から帰って着替えて急いで原宿へ向かう。
小雨の降る中ステージに立った眼光鋭く会場を睨むチバをはじめ、4人それぞれの所作が既にカッコ良すぎるのだが、
「ハロー、ベイビー、お前の未来を愛してる。」と、まだ音源化されてない"サンダーバード・ヒルズ"から始まり、畳み掛けるように鳴らされた"シトロエンの孤独"。
あの二曲の中に、ミッシェルガンエレファントと言うバンドのかっこよさが究極に詰まっていると思う。シトロエンの孤独のような詞が書けるようになりたいと、あの時からずっと思っている。
崩れたリーゼントをかき乱しながら歌うチバ、舌を出しながら暴れ回るウエノ、モヒカンでタイトにリズムを刻むキューちゃん、カッティングの鬼ここにありといったアベ。アンコールで「ジェニーはどこだ!」と叫ぶチバの声に応じて傘を投げ捨ててモッシュピットの中に飛び込んだ。
ほんとに嵐でみえやしねぇ靄のかかったステージからとんでもない閃光を放ちながら輝いているロックバンドの姿を今でもはっきりと覚えている。2001年の初夏。
ミッシェルの尖りとロマンが最高潮に融合した"ロデオ・タンデム・ビート・スペクター"は、本当に完璧なアルバムだと思う。
その2年後に幕張メッセでミッシェルは解散した。
お前の方が好きだから行ってこいよと、友人がチケットを譲ってくれた。映画"青い春"で使われていた"ドロップ"で始まり、DJイベントで何度も踊った"ブラックタンバリン"、"ゲットアップルーシー"、一番好きな"ベイビー・スターダスト"、ロックバンドのロマンシズムを形にしたようなラストシングル"エレクトリック・サーカス"、Mステを救った"ミッドナイト・クラクションベイビー"、"フリー・デビル・ジャム"、"バードメン"、"リボルバージャンキーズ"、"GT400"、"カルチャー"、"ゴッドジャズタイム"、"リリィ"、ひとつひとつの名曲に別れを告げる。
ダブルアンコール、"世界の終わり"ではチバの喉が詰まり、アベの4弦が切れ、ラストというにはあまりにもドラマチックな光景に立ち尽くすことしかできなかった。
それから19年、僕はチバの歌う姿を生で見ることはなかった。
09年にアベが亡くなり、ミッシェルの復活は完全に無くなった。
TMGE在籍中に結成したROSSOや数々の客演を経て、チバはThe Birthdayを結成。
ずいぶんハッピーな名前である。
王道のスリーコードにシンプルなエイトビート、後期のミッシェルやROSSOを彷彿とさせる切なく叙情的なメロディで、歌詞はずいぶんわかりやすくなった大人なロックだ。"青空"、"抱きしめたい"、"愛でぬりつぶせ"、"涙がこぼれそう"、なんてストレートな曲名はミッシェルからは想像もできない。
当時複雑なコードや、変拍子の曲が好きになっていた、何よりアベのエッジィなギターに魅了されていた自分には少し物足りなく感じてしまい、たまに新譜はチェックするもののライブはフェスでいつか見れればいいというスタンスをとっていた。
そんな昨年、The Birthdayをようやく見る機会があった。豊洲ピットにて、共演はenvyとtha blue herbという男しかいなそうなイベントだ。なんとチバの54歳の誕生日だという。The Birthdayのバースデーライブなんて、、ほんとかよとつっこみつつ解散ライブぶりに僕はチバの声を聞いた。
「夏の豊洲に来るとワクワクするね。」冗談まじりに呟くチバ。
コロナで三密回避みたいなことが叫ばれていたとき、僕は何度も豊洲のフジロックのライブを見ていた。三密の極みみたいなこの映像を見るだけで、これをいつか取り戻すんだと何度も思っていた。その豊洲で再びチバの歌を聴いたことは運命的なことに思えた。
チバはずっとそこにいた。
3コードで、カタカナ英語はそのままに、遥か優しい歌詞で、真っ白になったリーゼントと昔より少し枯れたしゃがれた声で、RUDE GALLERYの服を着てスカルをバックに背負い、ずっとそこで歌っていた。
過去を振り返らずずっと走り続けてきた説得力と共に。
それだけで嬉しかった。
それが最後のチバのライブになってしまった。
訃報を聞いた時、ラーメン屋でその時のライブで最初に演奏していた、"息もできない"を聴いた。
「何してる?どうしてる?楽しくやってる?」
と話かける当の本人がもうこの世にいないと思うと涙が止まらなかった。それから毎日のように寝る前にバースデイやミッシェルのライブ映像を見ている。97年の野音、99年のWORLD GEAR BLUES TOURとRISING SUN、00年と03年のフジロック、03年のWILD WILD SABRINA HEAVEN TOUR 、
スカパラの客演で笑顔で歌うチバ、HEY!HEY!HEY!でハマちゃんに突っ込まれるチバ、解散直前のトップランナー、いまだに心は整理できないし悲しみは捨てることができない。それだけではなく、ハイスタのツネさんに坂本龍一さん、今年は偉大な音楽家の訃報が続いた。それでもこんなくそったれの世界をどうしようもなく愛しいと、お前の未来は青空だってチバは肯定してくれるだろうか。
今言えることといえば、ありがとうございました。それしかない。あなたの言葉と音は自分の人生と感性を何倍にも豊かにしてくれた。
さよならはまだ言えない。
いつかのお別れの会なのか墓前にとっておきたい。
骨になってもハートは残るぜ
その時まで、この言葉を信じている。
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